私小説

インディアン サマー (1)

杉田廣海

世は情報社会で、最近はここLAでも、同時衛星放送で日本語TVが観られるようになった。だが、観たい番組と放送の時間帯が合わないことも多いので、プログラムガイドを見て放送される番組をビデオに録画し、後で再生するのがもっぱらだ。観る時間帯が合わないのは近所で(家から歩いて五分ばかり)ナッツやコーヒーの小売業をやっていて、毎日、八時近くまで店に居るので、ビデオなしでは好きな番組を見逃してしまうからだ。
衛星放送を取り付けた当初は日本のTV番組が珍しくて、さながら昭和三十年代半ばの、過ぎし少年の日のようにTVセットにかじりついていたが、さすがにこの頃は、以前ほどの熱はない。
新世紀も七年が過ぎ、退屈なはずのTV放送に初老の男が再びTVセットの前に釘付けにされたのは、画面に出る日本の人々の変わりように驚いたからだ。昔、日本のTVで馴染んだタレントや歌手の誰もが、考えてみれば当たり前のことだが、皆、歳を取っていたのだ。可愛くて活発だった若い女性タレントも今はすっかりおばさんとなり、二枚目だった俳優は、もう見るかげもない。
「おッ、あいつ、誰誰じゃないか。ヘェー、歳取ったなー。頭も禿げてしもうて!」「おい、何某はまだ生きてたんか?しぶといヤツじゃのう」などと、自分の加齢は棚に上げて、ちょっとした浦島太郎の心境を愉しんだりする。ちなみに、言葉があまり上品でないのは、育ちのせいもあるが、周りに躾けに気を遣う子供が居るわけでもなく、同年配のワイフと二人っきりだからだ。
そんなわけで、ときにはドラマの登場人物にさえ毒づくこともあるので、「押さえて押さえて、ドラマだから・・」と、彼女が傍でたしなめるのも一度や二度ではない。 創作のドラマ(むろん、承知の上だが)でそんな調子だから、ニュースの論調などで世論操作の意図が透けて見えるものだと、とたんに「バカヤローめが」と、頭に血がのぼってしまう。それは、待ってましたとばかり郵便配達人に吠えたてる我が家のワン公とまるっきり同じ反応だから、最近は意識して自重している。犬は飼い主に似る、といわれるとシャクだが、彼女も歳をとり、以前ほど人に吠えなくなった。
というわけで、長い異国暮らしの身には感慨深い芸能人の面々なのだが、美男美女だけが芸人ではない。ときには決してハンサムではなかった俳優の方が味のある役者になっていて、その意外さに驚くこともある。それも、醜男ほど深みのあるいい俳優になっていたりする。俗に、美人は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れると言ったりするから、外見の全ては第一印象だけに集約しているのかも知れない。
ともあれ、若い頃には毛嫌いしていた人物が、見違えるほどの魅力を放っていて、彼らを見ていると、天才も二十歳過ぎればただの人とか、大器晩成とかいって醸成のための時間が重要視されるのが、分かる気がする。この歳になって今更のように思うのは、人のことも物ごとも、先のことは分からないということだ。何ごとも変化している。予断や断定は、後々に齟齬を来すと考える方が無難だろう。
歳を取ったといえば、TVを観ている私たち夫婦もそうで、一緒になった頃とは明らかに違う。互いに再婚同士だから、他の同年配の夫婦よりは一緒に過ごした時間は短い。私はうら若い時分の華やいだワイフを知らないし、彼女の方もカッコ良かった青年期の私を知らない。しかし、早いもので、付き合って十七、八年、一緒に生活を始めて(結婚のライセンスは少し遅れたが)もう十年になる。十年一昔というから間違いなく一つの時代を共に生き、二人とも還暦を過ぎた初老の域に入った。
彼女は去年、私は今年が還暦だったが、正直なところ、若い頃は自分が六十歳まで生きるなどとは想像だにしなかった。病死か事故死か自殺か、死に様は兎に角、若死にを何となく自然に受け入れていたから、五十、六十まで生きることは予定外で、この歳になって、生きてまだこの世にあること自体が感慨深い。実際のところ、死にかけた経験は今までに三度くらいはあるのだ。

 一番最後のやつは四十過ぎの厄年の頃で、内臓破裂(膵臓が折れた)でメディックを呼んだのだが、他に外傷がないものだから、医師たちがレントゲンなど色々な検査を重ねても損傷箇所が特定出来ず、最終的に、開いてみようと開腹手術を行ったのが、緊急入院をしてから既に十日が経過していた。むろん、膵臓が折れているのだから、それまで不断なく襲う胃痙攣のような激しい痛みに、脂汗をかきながら七転八倒する毎日だった。自分では、胃が破れて穴が開いているのだと思っていたから早く手術をするように頼んだが、外傷がないので、医師たちは二の足を踏んでいたのだ。
内臓が破裂した状態で十日間も放置される身の辛さは、多分、誰にも理解できないだろう。私自身は、後に、弁護士に聞かされるまでは、手術は一週間目に行われたと思っていた。三日の誤差は記憶が飛んだのか、それとも、その間、全く意識がなかったのか、未だに確かではない。とにかく、眠るのはおろか、食事も水も摂った覚えはない。レントゲンを撮る前に無理矢理飲まされたバリウムも、すぐに吐き出す始末で、睡魔も食欲もまったく寄せ付けない、激痛の、地獄の日々だった。
診察台に横たわって朦朧とした頭に、「明日、開腹してみよう」と同僚と語っている医師の言葉が聞こえたときには、さすがに安堵した。命が助かるというより、これで痛みから解放されるという思いしかなかった。事実、手術が終わって意識が戻ったときに一番先に脳裏を過ぎったのは、(チッ、生きていたのか)という意識で、意外にも命が助かった喜びはなく、むしろ、どちらかといえば生きていたことに舌打ちしたい気持ちの方が強かった。手術後に医師が、「ユーは、タフだなァ」と私に言ったが、そのときの、私の心の内を彼が知っていたなら、同じことを言ったかどうか。
痛みから解放されると喜んだ手術だったが、麻酔が覚めると、同じ痛みがぶり返してきた。否、もっと強烈に変化したヤツが戻ってきたのだ。無理もない。みぞおちを基点に両の脇腹へ、ヘソを避けるように人の字形に開腹して、破損した膵臓の半分を取り出しただけの手術なのだから、治癒したわけではない。腹部を大きく切られた分、むしろ痛む箇所が増えたようなものだ。夜が更けるにつれ、痛みは激しくなる。耐えきれずにナースを呼び、痛み止めを注射してくれるよう頼むのだが、フィリッピン人のナースは、担当医師の許可がないからと、にべもない。
翌朝、検診にやってきた担当医師にナースの苦情を言い、その夜は痛み止めを打ってもらうことが出来た。しかし、医師の承諾を得た痛み止めだが、いざ打つという段になって、これでは打てないとナースが言うのだ。私の体が骨と皮にやせ細っていて、尻にもまったく肉がついていないので、注射をする場所がないと。七転八倒していた私は、どこでもいいからとにかく打てと強い口調で言い付け、彼女の躊躇もかまわず、骨と皮の尻に注射をさせた。
ペインキラーの効き目は、てきめんだった。否、絶大だったと言い変えるべきだろう。何故なら、あれほどの地獄の痛みを消してくれただけでなく、ゆらゆらと、宙にでも舞っているような、夢心地の至福をも連れてきてくれたのだから。

手術を受けたハーバー・ジェネラル・ホスピタルは、一ヶ月ほどで退院した。今のワイフと会ったのは、それから三ヶ月か四ヶ月くらい後だっただろうか。大体、そんな頃だと思う。日にちが曖昧なのは、ところどころ記憶が欠落しているからだ。
実はその頃、私は若い女と同棲していた。しかし、彼女の正確な年齢はおろか、名前さえ思い出せない。メキシコとアメリカ先住民の混血だと言っていたが、ハウスペイントを生業とする私のヘルパーをしている白人青年の交際相手だった。生憎、今は彼の名前も失念している。彼女は、私の借家に住み込みで働いている彼の部屋に時々通って来ていたのだが、彼が遠方の親もとへ帰ることになって去った後、住む場所がないので、二、三日だけでも泊めて欲しいとやって来て、結局、最後には、私と同棲するかたちになった。
同棲を始めて間もない十二月二十四日、イブの日だが、家主の使いがやって来て、クリスマスプレゼントだと言ってせせら笑いながら、私に小さな紙片を手渡した。見ると英語の走り書きで、今月以内に家を出て行けと書かれている。家主は六十年配のアメリカ人だったが、ワイフの方は彼より六、七歳は年上に見える日本人で、実際のところ、暮れも押し迫って、家を追い出される理由が分からなかった。
恨みを買うような心当たりはなかったが、人の心は分からない。私が気付かないだけで、家主の気分を害するようなことがあったのだろうと、出て行くことにした。しかし、何分にも急なことだ。そんなに都合よく、右から左に空き家が見つかるとは思えなかった。
私の場合、車の他に、商売柄、ピックアップトラックや大小様々なラダー(梯子)、エアーレス・スプレーヤー、カバー類、等々、沢山の道具類があるので、アパートではなく一軒家でなければならない。もしも家が見つからなければ、一週間の内に出て行けというメモが合法かどうかを確かめて、仮に不当な要求だったら少しは日にちは稼げると考えながらも、とにかく家を探してみようと同棲相手と一緒に車で出かけた。
ところが、幸いにも、空き家はすぐに見つかった。それも住んでいる場所からそんなに遠くなく、同じ間取り六軒が並ぶ内の一軒だった。難をいえば、道路沿いの建物で車の騒音がうるさかったが、そんな不満が言える状況ではない。少し狭いけれど、家賃も以前よりかなり安くなる。早速、契約して、その日の内に引っ越しを始めた。
新しい場所に移ってから日も浅い頃、同棲相手の悪癖が明らかになった。曲がったスプーンやライター、ガラスの皿などからドラッグをやっているのではと疑い、問い詰めると、はっきりとは認めないが、彼女の態度からは限りなく黒に近いものだった。 私のところを辞めていった白人青年も、隠れてマリファナを吸っていて、一度、きつく叱ったことがあったから、彼らはドラッグが縁で親密になったのかも知れない。 そういえば、泥棒の入った形跡もないのに、私のスーツやコートが紛失しているので、不審に思って彼女に訊いたら、友人に貸していると答えたことがあった。結局、それらの衣服は戻らなかったから、僅かなカネに換えて、ドラッグを買う足しにでもしたのだろう。

 事件は、ある日の遅い朝に起こった。その日は特にやる仕事もなく、私も彼女も家に居たのだが、近所の知り合いや友人だというメキシコ系らしい四人の若い男たちが訪ねて来ていて、居間で彼女と雑談をしていた。私が他の部屋から丁度居間に入って、初対面の彼らに会釈をし、短い言葉を交わし合ったそのとき、玄関横のガラス窓に、誰か複数の人が居るらしい影が映った。続いてドアがノックされたので、私が歩いて行ってドアノブのロックを外し、開けようとしたその瞬間、ドアが乱暴に開いて、数人の男たちがどかどかと部屋に飛び込んで来たのだ。
一体、何ごとだと驚いた途端、「動くな!」と叫んで最初に入ってきた男が、靴先で私のみぞおちを思いっきり蹴り上げるや、いきなり押し倒して後ろ手に手錠をかけ、締め上げた。部屋にいた他の男たちも、まるで獣にでも襲われているように荒々しく組み敷かれ、室内に怒号とガラスの割れる音が交差した。 
数分も経たない一瞬の間の出来事だったが、気がつくと、部屋に居合わせた全員に手錠がかけられて、その誰もがカーペットの上にうずくまっていた。立っている男たちは同じジャケットを着ていて、その背中にはシェリフと書かれたアルファベットが並んでいた。鮮明な記憶として残っているのは、締め付けられた手錠の痛みだった。 とても我慢できないほどで、手錠を少し緩めてくれと頼んだのを覚えている。
だが不思議なことに、ここから先の私の記憶が、少しの間、欠落しているのだ。しつこく言い募って手錠は少し緩めてもらったのだが、シェリフたちが何分くらい部屋にいたのか、同じく手錠をかけられた他の者たちはどうなったのか、等々、まったく私の記憶に残ってはいない。手錠を何時、どのように外してもらったのかも覚えていないのだ。
確かなのは、私は一人で部屋に居て、シェリフに蹴られたときの腹部の痛みがなかなか取れずに、苦しんでいたことだけだ。一緒にいた連中が連行されたのか、それとも解放されたのかも分からなかった。そこら辺の記憶は、完全に飛んでいる。ただ、壊れたガラス窓の文句を言った記憶はあり、彼らの一人が弁償すると答えたのだけは覚えている。
夕方になって、彼女がどこからか戻ってきたので、一体、どうなっているんだと騒ぎの原因を訊いてみたのだが、知らないの一点張りで、それからは終始、無言のままだった。そして、私の腹部の痛みはといえば、夜の帳が降りても一向に治まる気配はなく、ついには我慢も限界に達して、彼女に救急車を呼んでくれるように頼んだ。しかし、驚いたことに、彼女は「いやよ」と答えたのだ。思いもしない返事だったので理由を訊くと、電話はしない方がいいという。何故だと問い返しても、しない方がいいと言うばかりだった。
その頃、腹部の痛みは、蹴られた直後の単純な鈍痛とは違って力任せに胃を掴まれているような感じで、殆ど激痛に近くなっていた、もはや救急車を呼んで早急に処置をしてもらうしか方法はなかったが、彼女は、どうしても電話をするのはいやだという。私はすがりつくような思いで哀願したが、返ってくる返事は同じだった。
彼女の意志が変わらないのを知り、やむなく決心して、私は自分で911に電話をした。電話に出たのは女性で、「どうしたのですか」と訊くから、「家にいたら、いきなりポリスが襲ってきて私の腹を蹴ったので、痛くて我慢ができない」と、ありのままを述べた。だが、しかしながら、「すぐに来て欲しい」と結んだ言葉で、電話は終了とはならなかった。電話の相手は、それは何時だ、どこでだ、何故だ、と何度も聞き返してきて、一向に埒があかないのだ。
私はしゃがみ込んで腹を押さえながら、痛みを耐えて電話をしているのだ。何度も、悠長に話を繰り返す余裕はなかった。私は、受話器の通話口を手で押さえて大声で隣部屋の彼女を呼び、電話に出てくれるよう頼んだが、彼女は、「いやよ。出ない」と返事をしただけだった。
救急車が来ようとしないわけは何なのかと、私は痛みに苦しみながら思考を巡らせた。今なら、ポリスに蹴られて緊急電話をすること自体、普通ではあり得ない異常事態だと理解できるし、蹴られたのが午前中なのに救急車を依頼しているのは宵の口だ、という不自然さも分からないではない。しかし、頭の中は痛みで一杯の私に、そんな推論は論外だった。で、確信した結論は、先方はカネの支払いを心配しているのではないか、だった。本当かどうかは知らないが、救急車は貧乏人を警戒するという話を聞いたことがある。患者を運んでも、カネが取れなければ元も子もなく、商売にならないからだ。
それで、「支払うカネならあるから、すぐに来てくれ」と、私は言った。ついでに、「胃に穴が開いて、死にそうで電話している」と、少し大げさに、駄目押しの一言を付け加えた。

 甲高いサイレンを鳴らして、救急車が来た。否、やって来たのは、救急車だけではなかった。ポリスのパトカーも一緒に来たし、何の用あってか、大型の消防自動車が三台も連なってやって来たのだ。全車が派手なサイレンを響かせて、それぞれが赤い緊急ランプをクルクル回しながら次々と家の前に停まったものだから、その騒々しさときたら、半端ではなかった。
汚れた消防服を着た緊急隊員が、医療箱か道具箱だかを下げて、頑丈そうな靴を履いたまま、ずかずかと家に入ってきた。制服のポリスの姿もあった。
だが、ここでも彼らは質問を始めて、一向に急ぐ気配がない。何のための緊急隊かと、腹立たしかった。
私は911で話したことを、繰り返した。ポリスは厳しい顔で、睨むように私を見ていた。無理もないだろう。ポリスに蹴られたと訴えているのだから(実際は、シェリフだったが)。
ことの顛末を話しているのは私で、同じく手錠をかけられる被害を蒙った彼女はといえば、カウチに座ったまま、うなだれて、一言も口をきかなかった。あんなひどい目に遭ったというのに、まるで黙秘権でも行使しているかのように、うんともすんとも言わないのだ。私には、彼女の態度は何とも不可解だった。
そんな彼女を注意深く調べていた隊員の一人が、「彼女の手首は折れてる!」と、少し大きな声を上げた。皆が色めき立って、手首を調べている隊員のところへ集まった。 部屋に緊張した空気が張り詰め、一呼吸置いた後、ポリスが、「君たち二人は喧嘩をしなかったか?」と、何気ない口調で質問してきた。
私は、「していない」と答え、「腹が痛いので、早く病院へ連れて行って欲しい」と、続けた。彼は私の言葉が気に障ったらしく、急に怒り出して、「黙れ!、静かにしないと刑務所にぶち込むぞ!」と、威嚇した。
「刑務所に入れる理由は何だ? 罪もない者を、刑務所には入れられないだろう」と、痛みで少し気が立っていた私は、言わなくてもいい台詞を投げ返した。
彼は、「有罪か無罪かは、後で裁判所が判断する。おれの仕事は、おまえを刑務所に入れるだけだ」と答えた。そして、「おまえは、外へ出てろ!」と、ドアを指さす。 
「何故?」私は言ったが、「本当にぶち込むぞ!」と彼がいきり立ったので、私は黙って外へ出た。
表の、家のすぐ前の道路には大型の消防車が三台とパトカー、それに白い救急車がずらりと並んで、赤いランプを点滅させて停まっていた。人ひとり病院に運ぶのに、見るも大仰な光景だが、それよりも、野次馬が全く居ないところが凄い。
(危ないところだった・・)と、私はパトカーに目をやって安堵した。収容先が病院ではなく、もしも彼が言うような経緯で刑務所の方に入ったとしたなら、間違いなく私は助からないだろう。命が惜しければ、口を閉じるしかないのだ。私は痛む腹を押さえて、戸口にしゃがみ込んだ。
彼らは、私と彼女が取っ組み合いの喧嘩をして、その結果、双方が負傷したと推測しているように思えた。私は腹を、彼女の方は手首を負傷したと。
少し経って、「入れ」と、部屋に呼び入れられた。彼女への質問(尋問か?)が終了したとみえ、喧嘩の嫌疑は晴れたらしかった。彼女の手首の怪我も、隊員の見立てほど酷くはないようだった。
多分、私と同じく、手錠で強く締め上げられたのではないか。そのとき負傷したに違いない。今日負った手首の怪我なら、他に理由は考えられないではないか。私はそれを彼らに言いたかったが、ポリスの脅し文句を思い出して、言葉を呑み込んだ。
何やかやと手間取った末、結局、やっとのことで私は救急車に乗せられた。彼女も手首を負傷しているので、一緒に乗った。最初に車は、比較的近い病院に着いたが、どういうわけかそこを離れ、二十マイルほど南下した場所のハーバー・ジェネラル・ホスピタル病院に降ろされた。
正確な時間は分からないが、既に、夜もかなり更けていたのではなかったか。当直らしき医師に加入している医療保険カードを渡してから、彼の診察を受けた。だが、はっきりした負傷箇所が特定できず、したがって処置の施しようがなく、救急病院に収容されたにもかかわらず、腹をおさえて一晩中唸っていなければならなかった。
彼女はといえば、一応、手首にバンドエイドのようなものを巻いていたが、大した怪我でもなかった様子で、すぐに家へ帰れるとのことだった。
「カネは持っているのか?」と訊いたら、「ない」と言う。私は持っていた三十ドルを彼女に渡した。その金額で、帰りのタクシー代が払えるかどうか自信はなかったが、生憎、それが財布の中の有り金全部だった。

 退院の日、アフリカ系の大男が運転する病院のバンで、家まで送ってもらった。座席の多い送迎用の車両で、乗客は私だけだった。運転席近くの前の席に、ぽつねんと一人で座っている私を見て、やって来た運転手はちょっと顔を曇らせたが、苦労人とみえて、挨拶の言葉を投げかけた後は無言でハンドルを握り、何も詮索がましいことを訊こうとはしなかった。
私は、骨と皮に痩せこけていた。おまけに、退院するとはいえ、左の脇腹には水を抜くためのビニール管が二本差し込まれたままの状態で、先っぽのプラスチック容器はパンツのベルトで吊っていた。痛みに顔をゆがめて、どちらかの手でまだガーゼのとれない腹部を押さえているのが常だったから、人が憐憫のまなざしを向けたとしても不思議はないのだが、それよりも多分、そんな私に誰一人付きそう者がいないことに、男は顔を曇らせたのではなかったのか。
一ヶ月の入院の間、同棲相手は一度も病院を訪ねては来なかった。別に期待もしていなかったので恨み言を言うつもりはないし、私自身、人を非難できる人間ではないけれど、彼女もまた、どこか人間性に欠落した部分があるようだった。
薄闇が迫って、車のライトや建物の灯りが目立つようになった外の景色にぼんやりと視線を投げながら、軽いエンジン音の響くシートにもたれて、私はこれから先のことを思った。
お先真っ暗なはずなのに、不思議と絶望感はなかった。(どうせ、拾った命だ)と、生死の淵を彷徨った後の開き直りもあるが、それより、(こんな目に遭わせたシェリフたちを、必ず法廷に引っ張り出してやる)、という闘争本能のようなものが、絶望感を払い除けた。
運転手はすでに病院の事務局で私の住所を聞いていたようで、道案内も必要とせずに目的地に着き、家の前の道路上に車を停車させた。しかし、何故か、もうすっかり辺りも暗くなり、周りの家々は皆灯りが点いているというのに、私の家の窓は真っ暗だった。彼女はどこかへ出かけているのだろうか、と思ったが、それにしても、電灯も点いていない暗い部屋は寒々とした印象で、私の気持ちを沈ませた。
大男の運転手は、「誰も居ないのか?」と、今度は本当に気の毒そうな顔を向けて、エンジンを止めた。
私は車を降りて玄関に行き、ドアを開けようと取り出したキーをノブに差し込んだのだが、どうしたものかキーが合わない。驚いて裏に回ってみれば、ガレージの脇に停めていたGMのピックアップトラックも見当たらなかった。盗難防止にチェーンを掛けた大型の梯子類も、すべて無くなっている。ガレージのキーはといえば、これも新しいものに替わって、開けることも出来ない。
何が何だかよく訳が分からないが、明確なのは、自分の家を閉め出されてしまっていることだ。それは、最早、今夜から寝る場所もないことを意味した。退院した病院に戻るわけにはいかないし、手術後のこんな体で帰る家もないのかと、さすがに暗澹たる気持ちになった。
彼女が留守なだけか、それとも新しい住人に替わったのか、とにかく事情を訊こうと気を取り直して、隣接するマネージャーのドアを叩いた。
応対に出たマネージャーは、入院する羽目になった私に気の毒だったと頭を振って、予備のキーを渡してくれた。交わした貸借契約はまだ有効で、同居の彼女もそのままらしいが、彼女の要望でキーを替えたのだと説明した。私は安堵して礼を述べ、話のついでにトラックのことを訊いてみたが、彼は知らないと答えた。ともあれ、すぐにでも横になれて、体を休める場所を得ただけでも幸運だった。寝ていても辛い身に、これ以上立ち続けるのは、とても出来そうになかったからだ。
車の中で成り行きを見守っていた運転手も、私が振って見せたキーにうなずいて、笑みを返した。彼は私が家に入れないと知り、帰るに帰れなかったようだ。私は彼に礼を言い、頭を下げた。

 一ヶ月ぶりに戻って目にした室内は、以前とはまるで様子が違っていた。カウチなどの配置も替わっているが、それだけではなく、ガランとして、あまり生活のにおいが感じられない。調度品の類も数が減っていた。人が住んでいるのかいないのかさえ判然としないほどで、彼女の部屋のクローゼットを開けてみると、Tシャツ、ジーンズなどの衣類は少しあるものの、やはり、生活感はなかった。
台所は、それが一層顕著だった。食器棚はほとんど空の状態で、鍋、食器、ナイフなど、数点が残っているだけだ。
盗難に遭ったのとは少し違うようだし、だとすれば、考えられるのは二つくらいだ。一つは、彼女は今まさに、引っ越しの最中ではないかということ。二つ目は、家の調度品は人に売っぱらったか、それとも、気前よく誰かにプレゼントしたかだ。
このうち一番疑わしいのは、気前よく誰かにプレゼント、だろう。どういうわけか彼女には割と友人が多くて、女友だちもよく遊びに来ていたから(前に、そのときにドラッグの道具を見つけた)、もし、誰かが欲したとしたら、気前よく与えた可能性が高い。ちなみに家の調度品の類は、ほとんど、私の所有物だが、彼女は以前にも私の衣類を持ち出した前科がある。
ため息をついて、私は自分の部屋に行った。さほど多くもない書籍ばかりが目立つのは、他のものはすっかり消えているからだ。さすがの彼女も、その友だちも、日本語の本には食指が動かなかったらしい。
考えてもみても仕方がないからと、疲れもあって、私は自分の部屋で横になった。手術後の腹部の痛みも思うほど回復せず、長い時間起きてはおれないので、四六時中寝ている状態だったが、これから一人で生活するとなると、早速、明日からの食事の支度にも事欠く。その前に、食材の買い物はどうするのだ。途方に暮れるだけだった。 だが、たとえ困ろうとも、異国暮らしの独り身で頼れる肉親も知人もいないとあっては、這ってでも自分でやらなければならない。泣いても喚いても、誰も助けてはくれないのだ。
こんなとき、同棲相手が手を差し出してくれたらと思うが、彼女はただの一度たりとも、病院に見舞いにも来なかった女だ。期待する方が無理というものだった。
肝心なときに何の助けにもならない相手と、何故、一緒に暮らしているのかと問われれば、私はどう答えるだろうか。多分、男と女の縁は巡り会いだから、巡り会った相手が悪かったと言うしかない気がする。お前に女を見る目がないだけだと突っ込まれたら、女を見る目なら人並みにあると、私は反論するはずだ。根拠は、白人青年が私の家に彼女を最初に連れてきたとき、一目見て、「あの女は、止めとけ」と彼に、付き合わないよう忠告をした経緯があるからだ。
胡散臭さというのは信頼感に欠けるゆえだが、ときには危険な香りさえ漂わせているものだ。私が彼女に感じたある種の胡散臭さはまさにそれで、若い彼への忠告は、言ってみれば老婆心からだった。
付き合うなと言われて、それが出来るなら苦労はない。結局、彼は親許のところへ帰るまで、彼女と交際していた。かく言う私も、彼女と一緒に暮らしているのだから、何をか況やだ。ま、ゆえに、男と女の縁は巡り会いだと結論しているのだが。
しかしながら、男と女の物語には、神の小さな悪戯がどこかに必ず仕掛けられている。住む場所がないからと、何度も足を運んで同居を願う彼女を、住居が見つかるまでと受け入れたとき、私は、彼女が感謝こそすれ、私に対して恨みというか、しこりのような感情を抱いていたとは夢にも思わなかった。そのしこりとは、「あの女は、止めとけ」と私が白人青年に言った言葉を、彼女が知っていたことだ。どうやら、彼から聞いたものらしい。彼女はあるとき、それを私にポツリと漏らした。
相手の立場で考えると、私の言葉は、彼女には重大な意味を持つことが分かる。つまり、「あの女は、止めとけ」と私が言ったから、男は去っていったと彼女は思ったかも知れないのだ。勿論、そんなことはあり得ない。言った時期と彼が去った時期とに、時間的なずれがあるからだ。だが彼女は女だし、人によって受け取り方も違う。彼らの離別が、私のせいと思い込んでいたとしても不思議はない。
それよりも、私の言葉が彼女の人格を否定したと感じさせたのなら、これは多分にあり得る。もしそうだとしたら、私は彼女を傷つけたことになる。
しかし、言いたいことなら私にもある。こちらから見れば、それは逆恨みでしかない。口の悪い男は、星の数ほどいるのだ。逆に、きれい事ばかり言うくせに、薄情なやつも掃いて捨てるほどいる。口が悪くても、窮地に陥ったときに助けてくれる男と、いい顔はするがスルリと逃げる男と、一体、どちらが誠実か。問われて答えに窮しても、自分が当事者となったら身にしみるはずだ。私は、彼女を胡散臭い人間だと判断しながらも、彼女が窮状を訴えてきたから受け入れたのだ。

 私が退院したその夜、彼女が帰ってきたのは深夜だった。ベッドルームの壁越しに、カチッとロックを解く小さな音がした気配で、それが彼女だとすぐに分かったが、続いて、何やら低い話し声が聞こえた後、ドアが閉まった。誰かと一緒のようだが、例によって、女友だちが泊まりに来たのだろうと思った。自分のベッドルームへは私の部屋を通るのが近いので、退院を知らない彼女は不用意に部屋のドアを開け、そこで横になっている私に驚いて小さな声を上げた。一緒に帰って来た後ろの友人は、想像していた女友だちではなく、男だった。彼女は、「彼は、私の従兄弟よ」と言った。
朝になって、トラックや道具類、調度品が消えている理由を、再度、彼女に尋ねた。 昨夜も一応、訊くには訊いたのだが、要領を得ない上に私が疲れ切っていたので、話を中断するしかなかったのだ。
要領を得ないというのは、品物は売ったのかそれとも盗られたのか、はたまた人に与えたのかもはっきりしないということで、信じられないが、彼女の口から明確な説明を聞くことが出来なかったのだ。
従兄弟と言っていた男は、早朝から仕事に出かけていた。メキシコ系の若い男で、建築現場で働いているようだった。ここ四、五日泊まっていて、ここから仕事に通っているという。私は、彼のことはあまり気にも留めなかった。従兄弟だというし、私が居なかったので泊まっていただけで、家主が戻れば、当然、出て行くだろうからだ。
で、行方不明のGMトラックと調度品だが、調度品の方は不問に付す心づもりだった。彼女の態度と前歴から察して、売ったか与えたかのどちらかにまず間違いないし、私がいくら怒ろうと非難しようと、もう戻ってはこないのだ。
しかし、トラックとなると話は別だ。商売道具でもあり、調度品とは比べ物にならない。仕方がないで済ませるつもりはなかった。腹が痛くて大きな声は出せなかったが、手でみぞおちを押さえながら、声を絞り出して、私は徹底的に彼女を詰問した。
それで、取調室の容疑者がやっと落ちたときのように、彼女の重い口をついて出たのは、「誰かに、盗まれた」だった。その後は、知らぬ存ぜぬで話にもならない。ガレージに保管していたエアーレス・スプレーヤーやトラック脇の大型梯子なども、皆、盗難に遭ったという。
「トラックだけは、絶対に取り戻せ」と私は、彼女の話を遮って命令口調で言いつけた。むろん、盗難などという下手な言い訳は通用しないし、端から信じてはいない。
そもそも彼女にはウソが多い。それも息をするようにウソを吐くのですぐにばれるが、それでも平然としているから呆れる。例えば、どんな仕事をしているか訊いたときも、近所のポーカーゲーム場で働いていると答えておきながら、次の日にはもう、ブラブラしているといった具合なのだ。
したがって彼女は現実には無職だが、しかし、政府から、月に六百ドルかそこらの障害者手当のような補助金を受け取っている。他に収入はゼロで経済的には厳しいとしても、私と同居している限り家賃や食費の心配はいらない。実際、それで今まで何とかやって来たのだ。それなのに、後先も考えずに、生活必需品である私の持ち物を処分したのは、補助金の他にお金が必要だったからだろう。そんな無茶をしてまでも作ろうとするお金の目的はというと、これはもうドラッグしかない。
「トラックを売ったヤツに、すぐに連絡を取れ」と、私は彼女に言った。渋る彼女に、「それが出来ないなら、ポリスにレポートする」、と追い打ちをかけ、返事次第ではすぐにでも実行するつもりだった。ところが、彼女の顔色がサッと変わった。
「ポリスにはレポートしないで。お願いだから」と青ざめ、狼狽の色を顕わにしたのだ。さっきまでの強情な態度とは打って変わり、まるで別人のようだった。
このときに限らず、彼女のポリス関係への反応は異常で、その怖れようも少し病的に思える。確かにポリスを好きな人はあまり居ないが、それほど怖れる対象でもないはずだ。とは言え、私は死ぬ目に遭わされたのだから、本当は死ぬほど怖い存在かも知れないが。
彼女は思い詰めた顔で、「話をしてみるから、二、三日待って」と言った。盗まれたというのは案の定、ウソだったのだ。売った値段はと聞くと、なんと、たった千ドルだという。あきれたが、ドラッグ目的ならあり得ると、へんに納得できた。内心では、安く売ったのなら、買い戻すのも少しは楽だと思ったのが正直なところだが、問題は、相手が買い戻しに応じるかどうかだ。ここは、私自身で相手とじかに話すしかないと決断した。

 それにしても、ここまで酷いとはさすがに想像しなかったが、実は、何か起こりそうな予感じみたものなら、ないでもなかった。それはシェリフに踏み込まれる事件の少し前、洗濯か何かの家事をしている彼女が、「結婚してくれない?」と、私に言った日のことだ。
これが普通の善男善女だったら、返事は「OK」で一件落着、どこにでもある話だろう。しかし、私たちの間では考えられない台詞だった。同棲はしていても、あくまで彼女は生活の便宜上、私はやむを得ない人助けの延長線上にあった、いわば、なんちゃってカップルなのだ。そもそも、出会いからしてすれ違っている。
私は結婚の話を聞いて、二、三日前に偶然耳にした、彼女と女友だちとの会話を思い出していた。家に遊びに来ていたその女友だちは、私たち二人が一体どんな関係なのか不思議だったようで、それを訊いていた。彼女は、「愛人のようでもあり、兄妹のようでもあり、父と娘みたいでもあるかな。よく分からない。ちょっと、複雑ね」と、答えた。
結婚話は、彼女なりに、複雑な二人の関係をすっきりさせたかったのかも知れない。
私は彼女に「結婚は出来ない」と答えたが、「改心するなら、考えてもいい」とも付け加えた。彼女は、苦笑いをした。実際、私は、このまま何ごともなく過ぎていけば、それはそれでいいかも、と思った。だが、それは所詮、無理なのだ。そもそも、こうして穏やかに会話をしたことさえ、今までは一度もない。
私には奇異で場違いな感じのやりとりだが、穏やかな、そして心地良い雰囲気であることに違いはなかった。それはちょうど、北部の、厳しい冬の前に訪れるつかの間の小春日和、インディアンサマーに似ていた。私は、こんな日は、長くは続かないと思った。

インディアン サマー(2) 

退院して二、三日が経過したが、開腹手術の後から悩まされている腹部の痛みは、四六時中、掌で押さえていなければならない状態で、一向に和らぐ気配がなかった。
脇腹に差し込んでいる二本のチューブからは、薄く濁った体液のような水分が間断なく滲み出て、ズボンのベルトに留めた二つの小さなビニール・タンクに溜まった。医師の説明では、量は日が経つにつれて少なくなるとのことだったが、これも一向に減る気配がないのは、毎日、記録している分泌量の数字からも明らかだった。
体の衰弱と痛みとで囁くほどの声しか出せず、まともな会話さえままならない。
つまり、手術後の体調は最悪なのに、同棲してまだ日の浅い彼女(ここではシーナと呼ぶ。彼女には二、三の通名があったようで、記号ほどの意味でしかないが)の悪癖が、さらに追い打ちを掛けるように私を苦しめた。
悪い癖とは盗癖と虚言癖で、私の入院中に、盗まれたと称してトラックを売却していたことが露見したのだ。
シーナが売り飛ばしたのはトラックだけではない。めぼしい家財道具から商売道具のペイント・スプレイヤー、それから複数の大型ラダーに至るまで一切合切で、盗難に遭ったという見え見えのシナリオで、ものの見事に消失させていた。いわば、退院した私は、空き家同然の家に帰ってきたようなものだった。
結局、警察沙汰も辞さない私の剣幕にシーナは観念して、トラックを売った相手に返してくれと連絡を取った。その結果、どのように話をつけたものか、相手の若い男は私の家までトラックを返しに来た。
会ってみると意外にもどこにでもいそうな普通の青年で、彼の弁によると、シーナは、一緒に住んでいた日本人の男がトラックは処分してもいいと言って帰国したから誰かに売りたい、と話を持ちかけてきたという。
人が瀕死の重傷を負って入院しているってときなのに、まったく、あきれた性悪女だというしかない。私は、同じ時期に一緒に処分したと思われるスプレーヤーその他の品物についても訊いたが、彼は知らないと答えた。
ともあれ、トラックだけでも戻ったのは、不幸中の幸いだということか。
女の盗癖、虚言癖と続けば、残るのは男癖、これで三拍子揃う。男と女しかいない世の中で、男女間の関係を悪癖のように言うのは抵抗がある。抵抗はあるが、特定の男女の間には間違いなく、信義も介在する。相手への最低限の配慮を欠けば、それは悪癖へと堕ちてしまうだろう。
さて、退院した私が戻った家の中は空っぽも同然だったが、増えているものもあった。それは人物で、二十代半ばの男だった。シーナは、従兄弟だと言った。実際、彼女には親戚と称する男女の取り巻きが少なからずいたから、彼女の虚言癖もあり半信半疑ながら、まあ従兄弟だろうと漠然と思っていた。
メキシコ系は周りに親類縁者が多かったし、大勢で住んでいる家も多々あったから、誰かが入り込んでも、あまり不自然に思わなかったところもある。
とはいえ、家の主が戻ってきたのだから、便宜上、一時的に転がり込んでいた彼女の従兄弟なる男も、すぐにでも出て行くだろうと、当然、私はそう考えていた。
だが、二日経ち、三日が経っても一向に出て行く気配がない。そうこうしている内に、ある出来事に遭遇する日が来た。
骨と皮に痩せこけて回復の兆しの見えない体調を持て余し、その日も、私はソファの上に身を横たえて悶々としていた。諸々の不安に襲われ、何一つ確かなものとてない、最悪の精神状態だった。
隣の部屋では、シーナと従兄弟氏は二人で話し込んでいる様子だったが、そのうちにふざけ合っているような雰囲気のやりとりに変わり、時折甲高い嬌声も混ざって、何やら怪しい成り行きになった。
ほどなく声が止んで、代わってごそごそと物擦れの音が聞こえ始めたと思いきや、やがて、信じられないことに、隣の部屋から漏れ来る物音は、明らかに男女の睦みごとのそれになった。
私は、ほんの目と鼻の先でことに及ぶ二人の神経が理解できずに頭に血が上り、傷口の痛みも構わず声を発し、シーナの名前を呼んだ。
彼女は上気した顔を取り繕うような感じで、のそのそと部屋から出てきた。
私は、この家からすぐに出て行くよう彼に言えと、シーナに言いつけた。そして、ついでもお前も出て行けと。
ところが彼女は声をひそめた早口で、私に落ち着けと言い、彼を家から追い出すのは思いとどまるようにと言いつのるではないか。理由は、家賃として彼から幾ばくかのカネを受け取っているという。
私はようやく、彼が家を出ようとしなかったわけが理解できた。
彼にしてみれば、当然に泊まる権利があると思っての逗留だったのだ。否、逗留という表現は私の独断で、実は、彼はシーナと夫婦気取りでこの家に住み付き、稼ぎの大半を差し出していたのかも知れないと、今更のように思い当たったのだ。
となると、彼の目線で見れば、私の方が彼らの中へ割り込んだ闖入者ということになる。冗談のような話だが、シャレにもならない。
私は腹部を押さえて喘ぎ喘ぎ、声を絞り出すようにして、家の貸借契約と名義人の講釈を彼女にしなければならなかった。
非情だが、私は直ぐ、彼に家から出て行ってもらった。
こともあろうに、目と鼻の先でおっぱじめられるというのは腹に据えかねる屈辱で、どうにも収まりがつかなかったのだ。ぼろぼろで今にもくたばりそうな男でも、舐められたらやり返す、これが一日の猶予も与えずに彼を追い出した理由だった。

 痛い目に遭わされたらやり返す、この原則を適用すべき相手は他にもまだいた。家に踏み込み、私を病院送りにした数人のシェリフたちだ。
私は彼らを訴えるべく、弁護士を探し始めた。
そんなある日、カーペットの上の電話が鳴った。受話器を取ると女性のオペレーターが、刑務所からのコレクトコールが掛かってきているが、出るか?と訊くではないか。私は舌打ちしたい気持ちで、間違い電話ではないのかと問い返した。この通りのけちな男だが、生憎まだ、刑務所の囚人との付き合いはない。
オペレーターに通話を受けるのを断ったとき、受話器の向こうで、「ヒロミ、頼む、電話に出てくれ!」とメキシコ訛りだが、流暢な英語で私の名を呼ぶ大声が聞こえた。私は自分の名前を呼ばれたことに驚いて、とりあえず、コレクトコールを受けることにした。
しかし、どう考えても刑務所に知り合いはなく、「おまえは誰だよ?どうしておれの名前を知っている?」と尋ねると、彼は、先のシェリフに踏み込まれた事件のときに、一緒に私の部屋にいた一人だと言った。無実なのに刑務所に収監され、起訴されて、今度その裁判が開かれるという。
彼の私への頼みとは、裁判のときに、被告側の証人として証言台へ立って欲しいということだった。彼が言うには、事件の日に間違いなく事件のあった場所、つまり、私の家に被告と一緒にいたことを証言してくれればいいと言うのだ。要するに、事実をそのまま証言してくれということだった。
私は、彼の依頼を承諾した。
そのとき、情報をやると言って、彼は事件に関係したシェリフたち個々の認識番号を教えてくれたので、私はそれをメモに取った。
電話を切った後、彼との話で一つだけ思い至ったことがある。それは、彼は無実で刑務所へ入れられたと言ったが、私の家にいたという事実が彼のアリバイを成立させ、無実の証明となるのであれば、その家へ踏み込んできたシェリフたちは一体何なんだということだ。換言すれば、彼らシェリフは、急襲する場所を誤ったという理屈になるのではないか。
つまり、事件とは無関係の一般市民の家に押し入り、中にいた私たち数名に暴力をふるったあげく、手錠で後ろ手に縛り上げたのである。そして、私は病院送りにされ、彼の方は刑務所に放り込まれたというわけだ。
とにかく、思いがけないこの刑務所からの電話と、彼から得たシェリフたちの認識番号が契機となって私は弁護士探しを急ぎ、最終的に、LAのダウンタウンに事務所を持つ、若手のユダヤ人弁護士に辿り着いた。 
私は自分の身の上に起こった出来事を彼(ここではマークと呼ぶ)に話して法廷での弁護を依頼し、マークはその申し出を受諾した。

 従兄弟と称す居候氏が去った後は、家の中は一層、ガランとした空虚さばかりが目立って、人が生活する匂いみたいなものは感じられない。シーナは四六時中どこかへ出かけていて、家の中にいるのはいつも、私一人だけだった。
彼女が戻ってくるのは大抵が夜中近くだったし、家にいたとしても、居候氏が去った日あたりを境に二人の会話はめっきり減り、特別なことでもない限り、あまり言葉を交わすこともなかった。
そんなある日、弁護士のマークから連絡がきて、出来れば、家の近所のシェリフ局で市民サービスに対する苦情クレームの書式書類をもらって、事務所の方へ送ってくれないかとの要望があった。私は快諾したものの、まだ車の運転が出来る状態ではなく、徒歩で、腹を押さえながらゆっくりとシェリフ局を訪ねた。
局の受付に行き、私はカウンターの中にいる女性職員に、クレーム用の書式が欲しいと申し込んだ。
男性と同じデザインの、地味で厳つい制服を着た受付の年配女性は、胡散臭い目で私を見て「その書式を何に使うの?」と訊いてきた。
私は「酷い暴力を受けたので、シェリフを訴えるためだ」と答えた。女性は一瞬、気色ばんで私を睨んだが、気を取り直すように、突っ慳貪な態度ながら黙って書類を渡してくれた。
家の裏辺りをうろうろする初老年配の男を見かけるようになったのは、そのシェリフ局を訪れてから数日が経った頃合いからか。
最初は気付かなかったのだが、外を見る度に彼がいるので、ちょうど私も裏に出ているときに「何か用なの?」と訊いてみた。彼は「この辺りの、ガスの点検でね」と微笑んで言葉を返し、特別、不審というほどの様子でもなかった。
敷地内には五棟ばかり同じ造りの家が建っていて、仕切りの塀があるわけでもないので、知らない人がいることは多々ある。
しかし、ガスの点検にしては見かける回数も多いので、そのときには折良く家にいたシーナに、「おかしな奴が、いつもいるんだけど・・・」と、部屋の中から、窓の外に見える彼を指さして言った。 
窓を覗いて彼女は男を見たが、すぐに顔色を変えて、「あれは刑事よ」と言った。
「刑事?間違いないのか?」
「間違いないよ。何回も会ってるから」
シーナは、言った。
「何のために、刑事が?」
私は彼女に問いかけながらも意識の奥底で同時に、素早く自らの答えを導き出していた。十中八九、彼はアンダーカバーに違いないと思ったのだ。
恐らく、私の素行調査や怪しげな人物の出入りなどをチェックしているのではないか。理由は多分、シェリフ局を告訴したせいだろう。相手も、反論のための粗探しをやっているんだろうと、そう思ったのだ。
刑事だと聞いて少々驚きはしたが、心配はしなかった。がさがさと一生懸命に嗅ぎ回って、せいぜい仕事をしてろと毒づきたいくらいだ。いくら私の身辺を探し回っても、刑事が喜ぶようなものは何も出てこないからだ。
鼻血も出ないとはこのことだ。
私はガランとした部屋を見渡して、内心、自嘲的な笑いを漏らした。
不審な男が刑事だと分かって、落ち着きを失ったのはシーナの方だった。彼女は用もないのに部屋の中をうろうろと歩き回っていたが、ついには、何を思ったか外へ出て刑事氏と話し始めたのだ。
窓越しに彼らの様子を見ると、シーナはまるで媚びを売るように、へらへらと笑いながら話していた。刑事の方は、にこりともしない。むしろ冷ややかな目つきで、彼女を直視している。その図は何だか歪んで、不自然な光景に思えた。
それにしても、人はときとして不可解な行動をするものだと思う。
私の知る限り、シーナは極端にポリスの関係者を怖れているようだったのに、自分からわざわざ出て行ってまで話し込むとは、一体、どういうつもりなんだと首を捻ってしまう。
嫌いな連中なら寄り付きもしないのが普通だし、第一、私服の刑事など、友人や知人なら知らず、一般人には判別さえ不可能だ。だったら刑事と知り合いの人物こそ、よほど胡散臭い。その意味では、シーナも、叩けば埃の出る体なのかも知れない。
だが、埃が出るのは、叩かれる方だけとは限らない。正義の誇大看板を高く掲げているポリスやシェリフの側にも、社会の埃にまみれ、権力の垢に汚れきっている場合は多いのだ。それは厳然たる事実として、私自身、半死の体験で実証済みだし、刑務所からコレクトコールを掛けてきた青年も、檻の中から無実を叫んでいる。
実際、過剰な権力行使による被害者や冤罪の犠牲者は、それこそ山ほどいた。
特に、一九八十年代の後半はポリスの暴力が多発して、多くのメディアでポリス・ブルータリティという言葉が頻繁に使われるようになった。私が事件に巻き込まれた一九九0年も、イスラム教徒の二十七歳になる黒人青年が、交差点でシェリフに撃ち殺されて、大きな問題になったばかりだ。
ドラッグ絡みのギャング間抗争でストリートは殺伐とし、ポリスやシェリフたちも堕ちるところまで堕ちて、陰ではギャング等と少しも違わない。人によっては、ギャングよりも質が悪いと言って憚らないほどだ。今や誰もが誰かに苛立ち、不審と不満の鬱憤を胸の奥で押さえている不機嫌な時代なのだ。

 全ての面でどん底の日々だと身に染みて暮らす毎日だったが、不思議なことに、完璧な絶望感に打ちのめされるという感じはなかった。何の根拠もないのに、これから先のことは割と楽観視していたのだ。多分、現実を直視すれば、死に神に取り憑かれると本能的に察して、目を逸らせたのだと思う。私にとってこの日々は、実は、生死の際に佇んでいるぎりぎりの毎日だったのだ。
しかし、この心身ともに窮地極まるロクでもない状態が、どん詰まりのどん底だと思ったのは、大きな勘違いだった。
どん底にいるはずの私に、何と、一層悪い便りが届いたのだ。
十二分に哀れな男を更なるどん底へと突き落としたのは、病院からの請求書だった。経済は殆ど破綻しかけ、そろそろ明日の食事代さえ事欠く有り様だというのに、五万ドル近い請求金額が記載されていたのだ。
私は頭を抱えて、途方に暮れるしかなかった。だが何故?と、疑問も湧く。医療保険を持っていて、救急車で運ばれたとき、診察をした担当の医師にその保険カードを手渡したはずだった。
その保険は治療費の全額をカバーするだけではなく、入院した場合には、一日あたり百ドルの保証金が支払われるオプションにも加入していた。こういうこともあろうかと少しでもリスクを軽減するために、月々の掛け金に上乗せして、毎月欠かさず支払ってきたのだ。
私は早速日系の保険代理店に、事情を聞くための電話を入れた。だが、私の担当は既に退職して、日本へ帰国していた。LAには、日本語文芸の愛好者で発行している南加文苑という同人誌があり、担当の彼とはそのサークルで知り合った。
オレンジ・カウンティで鉄工所を経営していたようだが、離婚を機に事業を売却した後、何ヶ月か経って保険代理店に就職したとき、就職祝いの意味もあって、彼の勧めに応じて加入したものだ。
文学の毒ともいわれて、ある意味、悪くすれば身を滅ぼすほど危険な趣味らしいが、私の場合はそのサークルで知り合った彼の保険で助かったと思っていたから、下手の横好きながら、内心ではその趣味に感謝していた矢先のことだった。
むろん、担当者がいようといまいと、保険の効力には関係ない。保険が適用されていない理由を責任者に訊くと、何と、私が犯罪と関係している可能性があるので、保険金は支払われないとの返事が返ってきたのだ。私は吃驚仰天して、犯罪には関係していないと言い立てたが、本社の決定事項だからとにべもない。文句があるなら、ニューヨークの本社へ言えというわけだ。         

インディアン サマー(3)

 健康を損ねたり傷害を負ったりして入院し、手術が必要なのに保証してくれる保険がない場合は、目の玉が飛び出るほどの費用を請求されることになる。アメリカに住んでいると、時折、そんな話を耳にすることがあった。
確かに医療技術は進んでいるかも知れないが、支払いの方も、血の気が引くような金額を突きつけられるのだ。
私は保険を持っていたので病院から請求書入りの封筒が届いたのが意外だったが、取り出した請求書の四万ドルに届こうかという金額と、同封の手紙で、支払い済みだとばかり思っていた入院費や手術の費用が未払いだと知って、吃驚仰天した。
膵臓が半分に折れた、所謂、内臓破裂の手術をしたのだから小さな金額ではないとは予想していた。だからこそ、保険の恩恵を受けた不幸中の幸いに感謝していた矢先のことだった。ところが、保険会社から病院への支払いはされていないという。
保険に加入した代理店との電話のやりとりでは、病院への支払いを拒否したのは、私が犯罪に関わっている可能性があるからだと聞かされた。
電話では埒があかないので、私は体調不良を押して、バスで保険代理店のオフィスに行ってみた。
以前、保険に加入する前に、短期間だったがそこで働いていた友人がいて、その縁でオフィスに足を運んだことがあるので、『お客さまの、利益のために』と大書されたスローガンの垂れ幕がある室内の光景と、愛想の良い日系の、ひげを蓄えた初老の経営者の顔には見覚えがあった。
前と異なるのは、日本へ帰国して、既に友人はいないことと、私が保険の支払いを要求する客になっていたことだった。状況が変われば、扱いも変わる。経営者の愛想は消えて取りつく島もなかったし、スローガンの大きな文字も、私には、この上ない空しさにしか感じられなかった。
このときの印象が強かったせいか、以来、私は、耳に心地の良い企業の謳い文句やキャッチフレーズの類は嫌いになり、口がうまくて愛想の良い人物には、反射的に、胡散臭いと疑うようになった。我ながら、いやな性格になったものだ。
結局、誠意の欠けら一つ伝わって来ないこの人物から得た唯一のものは、ニューヨーク本社の所在地と電話番号が記載された名刺一枚のみだった。
私は壁のスローガンを指さして、彼に外すように言ってからオフィスを出た。

 捨て台詞とも嫌みともつかない言葉を残して、保険代理店に見切りをつけたからには、後は本社への直訴しか手段はなかった。家に帰り着くと早速電話をしてみたが、時差もあって、その日は連絡が取れなかった。
次の日、再度電話をして事情を説明し、入院費を払ってくれるよう、何とか理解を得ようとしたのだが、結局は徒労でしかなかった。
三時間の時間差を隔てて電話に出た相手は、端から結論ありきで、最後には弁護士を立てて手続きをしていただいて結構ですと、木で鼻を括るような対応に終始した。 要するに、金は出さないという結論だった。
決まり文句を繰り返すように、丁寧に且つ事務的に、言いたいことがあれば法廷でとなるだけで、結局、話はそれ以上進まなかった。
私はむろん、犯罪が原因で負傷したのではない。
無いことなので、それを証明することは出来ない。もしも私の犯罪が原因だというのなら、いつ、どこで、どのようにして私が負傷したのかを、保険会社が私に説明する責任がある。私の犯罪性を口実に契約を履行しないのなら、相手が、その犯罪を立証する義務があるのは自明の理ではないか。
人は、まさかのときのために保険契約をする。不測の事態に備えて契約し購入した保険が、いざというときに、言いがかりのような口実で反故にされるなら、保険会社の行為こそ犯罪だろう。
私は諦めきれずに、手紙で説得してみることにした。
しかし、これも無駄で、電話で言ったことを繰り返す一通の返事が届いただけで、後はいくら手紙を出しても、なしのつぶてだった。そして、驚いたことに、この保険会社は、唐突に、この月から大幅な保険料の値上げをしてきたのである。
私ではもう手に負えないので、弁護士のマークに、保険会社に必ず支払いをさせるよう、頼んだ。

俗によくないことは続くというが、いわれのない負傷で手術後の体調は最悪、家の中は空っぽにされるわ、仕事が出来ないから経済的にも追い詰められる状態に加えて四万ドルの請求書が来るわでは、まさに踏んだり蹴ったり、泣きっ面にハチで、不運の連鎖は、まんざら出鱈目な俗信でもなさそうだった。 
そして同棲相手のシーナはといえば、何処で何をしているのか、いつも帰ってくるのは午前さまだった。彼女への不満や鬱積が溜まっていくのは自覚していたが、反面、単なる同居人で、腹を立てるほどの関係ではないとの自制も常に働いていた。
実際、食事の用意をしてくれるでもなし、身の回りのことも自分自身でやっていたから、何一つ、互いに干渉し合うこともなかった。それなのに、彼女に対して少しずつ不満や鬱積を募らせるようになったのは、どうしようもない体調不良と、経済的に追い詰められていく不安のなせるわざだったのだろう。
現実的に考えると、私の命は短くて数ヶ月、長くても五年も保たずに、数年以内で死ぬのだろうなと、漠然と予測していた。膵臓癌患者の術後生存率などから、私は、およそ、それくらいだろうと判断していたのだ。
このことは担当の医師にも訊くには訊いたが、「分かりません」の返事しか返っては来なかった。先の異変のことまでは分からない。言葉尻を取られても困るから、曖昧な返事しかしないのだ。
ともあれ、私の命はそう永くはない。私はそう思って日々を過ごしていた。
そんなある日のこと、私も何度か会っているので顔見知りなのだが、シーナの知人の若い娘が家へやって来た。生憎、というより例によってシーナは留守で、私もいつものようにカウチに横になっていたのだが、居間に入ってきた彼女は私を凝視した後、何を思ったのかポケットから五ドル札を取り出して、黙って、私に手渡してくれたのだ。
確か、彼女の年齢は、十六、七歳くらいだっただろう。
私は驚いて、彼女を見た。
彼女は、
「いいから」
と言って微笑み、きびすを返して家を出て行った。
私の驚きの気持ちは、しばらくの間、消え去らなかった。十五、六の娘っ子が、四十過ぎのいい歳の男に、小銭をくれたのである。
私にとって、二つの意味で、それは小さな衝撃ともいえるほどの驚きだった。
自分の姿は、人さまがお金を恵んでやりたくなるほど憐れに映るのか、ということと、もう一つは、五ドルという金額は、あの年頃の娘には、決して無駄に出来るお金ではないと思えたからだ。彼女が裕福な家庭の娘でないのが分かるだけに、余計に、彼女の行為は私の胸にしみた。
しばらくの間、カウチの肘掛けに頭をのせて、仰向けの状態で漠然と天井を眺めていたが、私は起き上がって近所の、小さな食品店へ向かった。
所持金は、先ほど、娘の子が恵んでくれた五ドルだけで、そのお金で、量り売りの米を買うつもりで出かけたのである。他のお金と混ざり合って、彼女の五ドルを、何に使ったか使途不明にしたくはなかったからだ。そのお金で米を買い、一口一口を噛みしめて、嚥下しなければならないと思った。それは彼女への気持ちもあるが、自分自身への戒めとしても、心の中に留めておきたかったからである。
ワンブロックほど離れた場所の、食料品店が入居している建物の脇には、アフリカ系のホームレスの男が、建物に背中を預けて空を仰ぐような格好で座っていた。
垢の染みついた衣服が黒光りしているので、路上生活も短くないらしいと見て取れたが、まだ歳は若く、三十年配くらいか。イヤホーンを耳につけて目を閉じ、リズムに乗るようにして小刻みに体を揺らしている。好きな曲でも聴いているのだろうか。 私は、不意に、彼を羨ましく思った。
彼は、今は厳しい状況かも知れないが、若くて屈強な肉体をもっている。母国で生きているなら、外国暮らしの私などより、心がけ次第では、容易く生きて行ける基盤があるではないか。
一方、我が身を見れば、骨と皮に痩せこけて明日をも知れない体を、痛みに堪えて折り曲げるようにして歩いている。数ヶ月か、保っても精々二、三年と踏んでいる命なのだ。尾羽打ち枯らした姿を憐れんで、十四、五の娘が小銭を差し出すほどの情けなさだ。どう見ても、ホームレスの彼の方が格段に恵まれている。
しかし、ホームレスを羨む我が身の境遇とは、と思うと、笑いさえ込み上げるから、人とはおかしなものだ。
笑っている場合ではないが、泣く気分でもない。夢も希望もないのは置くとして、埋み火のような闘争心だけは胸に抱いていた。
私をこのような境遇に堕としたポリスたちへの報復をしないことには、死んでも死にきれないという思いだった。
彼らだけは、たとえ刺違えてでも、逃がすわけにはいかない。出来れば、あの保険会社にも一泡吹かせてやりたいし、勝手放題で迷惑ばかりかけるシーナにも、機会があれば、お灸を据える必要がある。
ホームレスより見劣りして、命さえ心許ない境涯ながら、暗い淵の底から沸々と湧き出る荒ぶる気持ちだけが、私の、今を生きるエネルギーだった。 

インディアン サマー(4)

 三月に入り、日差しも時には春らしい陽気を感じさせたが、朝晩の冷え込みは相変わらずで、特に、退院後間もない痩せ細った体には寒さも一段と骨身に応えて、夜になるとヒーターを入れずにはいられなかった。今晩もシーナは留守で、どこで何をしているのか、家に戻ってくるのは夜半を過ぎることを予感させた。
それにしてもと、独り悶々と巡らす思いの果てにいつも辿り着くのは、手術を終えて麻酔から覚醒したときの感情だった。手術をする前には、耐えがたい痛みのせいだが、早くどうにかして貰いたいという思いの中には、命の惜しさも確かにあった。ところが、麻酔が醒めたときには舌打ちしたい気持ちしかなかったのだ。
(チッ、生きているのか)
が、頭を過ぎった最初の気持ちだった。
熟考の末ではなく、感覚的な判断で否定した点が、私を拘らせた。本心を測る上での真否が、どうしても気になるのだ。しかし、命が助かった安堵から甘えが出たのではなく、やはり、どのように考えを巡らせても、あの手術の時ほどの終焉は望めないような気がしていた。これから先いくら生き存え、どのような死期を迎えたとしても、あのとき以上の完璧な死は望めないと強く思う。
何故なら、思い残すことが無かったからだ。
まず、死を悲しむ人がいない。私にとって、これ以上の幸いはない。愛する人や縁故者が、悲しんだり途方に暮れたりする姿を残しては、死んでも死にきれない。
誰にも知られずに死ぬほどの大往生があるとは、到底、私には考えられない。
私にとっての大往生とは苦しまずに死ぬことでも、物事を成し遂げて死ぬことでもない。私の死が他人の苦しみの理由にならないことなのだ。自分の死に利益や不利益が伴わず、悲嘆や喜悦さえ皆無だとしたら、これ以上の幸いと安らぎがあろうか。
貧者の、物の数にさえ入らない弱者の死は、このような意味で大きな安息を含んでいるのだ。
しかし、生きることは矛盾の荒海に翻弄されることでもある。私は膵臓を破損したいわゆる内臓破裂の状態のまま、食欲も睡魔も寄せ付けない痛みの中で、手術までの十日間を生き抜いた。執刀した医師が後で驚くほどだったが、その生命力は、とりもなおさず、生き続けたいと望む力に他ならないのだ。
この先、何年生きられるか不明なのも、不安で落ち着かない。死んだ方が良かったと言いながら生に執着するのは、天国や極楽浄土の素晴らしさを説きながら、決して、その天国極楽へは行こうとしない人物に似ている。
もう一つの矛盾は、シーナだ。
私自身は、彼女は単なる同居人だと思っているのに、毎日のように遅い帰宅が、内心、穏やかでなくなってきている。
彼女に対する諸々の不満と我慢は日々鬱積して肥大し、特に今夜は、自分でも持てあますほど怒り心頭に発していた。出来るなら頬の一発でも張ってやりたいが、さすがに、当地では許されない。またしても、警察沙汰になるのが関の山だ。
土足でシェリフに踏み込まれるのも、パトカーに駆けつけられるのも、もう二度とごめんだった。彼らの強圧的な弱い者いじめと比べると、ヤクザの方が余程、加減を知っている。
私は、キッチンへ行ってバケツに水を満たした。シーナが帰ってきたら、頭から水をぶっかけてやろうという魂胆だった。となると、部屋の暖かささえ緩いと思えてきて、ヒーターのスイッチを切った。
そして、さて、玄関口に運ぼうとシンクの中のバケツを持ち上げようとしたのだが、情けないことに腹部の痛みと体力の欠如で、満タンのバケツはびくりともしない。やむなく半分以上も水を減らしたが、想像していた頭からずぶ濡れという効果は半減しそうだった。
玄関の戸口にバケツを置いた私は、部屋の電気を消し、毛布を被ってカウチに体を横たえた。
暗い企みを秘め、息を殺すように彼女の帰宅を待つのは、闇討ちのようでいい気持ちはしない。出来るなら怒りの矛先を収めたいが、男の意地とか面目とか、考えもしなかった嫉妬じみた感情さえもがまとわりついて、どうにも収まらなかった。
自分のおかれている今の状況を思えば、それらの感情はどれも傲慢で、明らかに、分を弁えない怒りなのだ。生きている限り、どんな状態であろうと、人はやっぱり矛盾や怒りに翻弄される。
そして、その先に待っているのは破滅だった。
人は、それを知りながら突進する哀しい存在なのだ。
ヒーターを止めた部屋は、時間が経つにつれて冷え冷えとし、闇に息を潜める自分が、何か獲物を待つ深海の生物のようにも錯覚する。
深海の闇に棲む生き物の方がはるかにマシだと、私は思った。少なくとも彼らは、人間のように、同類に危害は加えないだろう。実際のところ、このまま深海の住人になれたらどれほど幸せだろうか。
誰かが、海の底の貝になりたいと言った気持ちはよく分かる。だが、貝になったとしても、生存の煩わしさから解放されるかどうかは疑わしい。私なら、冗談ではなく、普通の生物は棲めない無酸素の、極限状態の深海に生息するというバンパイア・イカか、四億年も姿を変えないシーラカンスになりたいところだ。
絶えず進化する生き物と全く進化しない両者のどちらが平和的で安定しているか、言を待つまでもなく、自ずから答えは明らかだ。
幸せなのは、シーラカンスの方なのだ。
ともあれ、残念なことに私はシーラカンスではない。それも、暗い部屋で、同居人の女に冷や水を浴びせてやろうと待ち構えている困った部類の人間なのだ。

 時刻は夜半を少し回って、そろそろシーナが戻ってくる時分になった。
さすがに底意地の悪さに堪えかねて部屋の明かりはつけ、再度、ヒーターのスイッチも入れていた。更に、もう一歩譲って玄関脇のバケツを取り下げれば、少なくとも傍目には、灯りの点った暖かい部屋で同居人を待つ構図になって、何事もなくいつものように時間をやり過ごせるはずだった。だが、それは出来ない。その時間がいつも午前さまで、我慢も限界に達していたからだ。
やがて、玄関口で足音がして、ドアノブが回った。
私は戸口に立ってシーナの姿が現れるのを待ち、ドアが開くや、下げていたバケツを振りかぶった。
驚愕した彼女の顔が目に入ったが、生憎、バケツは内側に開いたドアの縁に当たって、何と、水は私自身の頭に降りかかったのだ。
何の因果か、私が水を被り、シーナはといえば、飛沫がほんの少し衣服を濡らしただけだった。
彼女はずぶ濡れの私の頭を見て、声をたてて笑った。
髪から冷や水を滴らせながら、思いもしなかった結果に吃驚して、きっと私は間抜けな顔をしていたに違いない。
私も対応に戸惑い、苦笑いするしかなかった。
そもそも、術後の痛みを抱えた虚弱な体調では、水の入ったバケツを振りかぶること自体に端から無理があったのだ。人並みに真っ直ぐ体を伸ばすことさえ出来ずに、いつもチューブを差した腹部を押さえて屈み込んでいる状態なのだから。
「シーナ、お前はオレを裏切ってばかりいる・・・」
私はバケツを置いて、片手で濡れた髪を拭い、彼女に言った。
水の洗礼を仕掛けたわけを言ったつもりだが、怒気はなかった。頭を冷やしたせいで怒りは消えていた。
「・・・」
彼女は返事をせず、黙って私を見ていた。
醜くはなく、さりとて美人でもない。やや小柄の、見た目にはごく普通の女だが、私にとっては、正直なところ、世の中にはこんな女も居たのかと驚かされるばかりだった。
人に大怪我を負わせる原因を作っていながら、一ト月もの間病院にも顔を見せず、留守中、他の男を家に引っ張り込んだ挙げ句に、家財道具から商売用のトラックまで叩き売る女が、そうそう居るはずがない。おまけに嘘つきで、クスリの疑惑もある。
「オレは、無理な要求はしていない。普通の生活をしろと言ってる・・・」
「出来るものなら、私だってそうしたいと思っているけど」
彼女は答えて視線を落とし、その後は何も言わなかった。
殊勝にも恐縮している風情で、私は、もうそれ以上シーナを咎める気持ちが失せてしまった。

冷や水を浴びる憂き目に遭っても、シーナに変化は期待できなかった。
逆に私の方でさじを投げるかたちになって、そうなると、不思議なことに、今までほど彼女の行動が気にならなくなったのだ。それどころか、バスルームでゴシゴシと私のジーンズを洗っている後ろ姿などに出くわすと、いじらしさとともに感謝の念さえ湧いてきて、奇妙な気持ちになる。過酷な日々にふっと顔をのぞかせる小春日和、こういう感情の積み重ねが男と女の歴史になるのだろうかと、漠然と思う。
傍目には奇妙なカップルと映っても、本人たちに齟齬はないのだ。
水の洗礼事件があって、数日が経過した。結局、何も変わらず、私は、乗ることもなくなったシェビー・トラックのバッテリーが放電しない内にエンジンを回しておこうと思い立った。
一度はシーナに売り飛ばされ、取り戻したクルマだ。
キィを持ってトラックに乗り込み、エンジンを始動させると、力強い排気音が辺りに響いた。車体は古いが、エンジンはリビルトを載せ替えたばかりで、すこぶる調子が良い。
エンジンが暖まってアイドリング状態になり、排気音が低くなると、ラジオのスィッチを入れ、私はドアを背にして、ベンチシートに足を投げ出した。
ラジオからは、バラードを歌っている女性歌手の声が流れてきた。
私は目を瞑って、聞き耳を立てた。

あなたは去り、私はここに居る
私を残して行ったから、こうして蹲って泣いている
なんて酷い仕打ちなの
でも、もう関係もないのよね

 男と女の破局が、切々として流れてくる。
私は曲が変わったのを期に体を起こし、何気なく、ふと、リヤ・ウインドー越しに荷台を目をやった。すると、そこに、隅に隠すようにして、二、三の小荷物らしき物が置いてあるのに気付いた。
クルマから降りて荷物を手に取ってみると、どうやらシーナの衣類や持ち物のようだった。
彼女は留守で、念のために部屋に戻ってクローゼットやその他の場所を覗いてみた。 すっかり空になっている。
シーナは、家を出て行くつもりらしかった。私に分からないように、少しずつ荷物を運び出して、死角となるトラックの荷台の隅に隠していたようだ。
私は、強いショックを受けた。
慄然としたと言い換えてもいいくらいで、彼女に水をぶっかけ、出て行って貰って結構、という覚悟を決めていた男とは思えないほどの衝撃を感じていたのだ。
近い先に沈む運命の船からはネズミも逃げ出すというが、とうとう、シーナさえもオレから逃げてゆくのかと、言いようもない寂寥感に襲われる。
その夜、シーナはどういうわけか早くに家へ戻っていた。
いつもと変わらない態度だったが、私は、トラックの荷台に彼女の荷物があったことを切り出した。
彼女は、驚いたような顔をした。
「出て行くつもりなのか?」
私が訊くと、黙って頷く。
「こんな体のオレをおいて、出て行くのか?」
彼女は、黙ったままだった。
シーナの顔を見て、私は覚悟を決めた。
溺れる者は藁をも掴むというが、現実には藁を掴んでもどうしようもない。スパッと心を入れ替えるしか対処する方法はないのだ。実際、現実問題として、シーナに藁ほども有り難みがあろうか?
「分かったよ」
私は彼女に言って、別れを承諾した。

シーナが家を出て、私は独りになった。
 夫婦でも恋人でもなく、といって単なる同居人とも言えない中途半端で奇妙な関係だったが、ともあれ、数ヶ月は同じ屋根の下で暮らしたのだから、その片方が去った家の中は、形容し難い寂寥感が漂っていた。
 病院のベッドの上で十日間も七転八倒した挙げ句、命からがら膵臓の手術を受けたばかりの身で、そのうえ頼る者とていない異国暮らしとなると、その寂寥感は凄味さえ帯び、あたかも喉元に鋭利なナイフを突きつけられたような、進退窮まる緊迫感があった。
 このままでは、野垂れ死ぬか、その前に自ら命を絶つかの二つに一つしかない。沈んでいく船から逃れるネズミのように、シーナさえも逃げ出したのだ、他の誰が助けてくれようか。
 元々、この家の中でシーナの持ち物は、少量の、手荷物程度の着替え衣類だけだったし、どこで何をしているのか、彼女は昼も夜も家を空けているときが多かったのだから、居なくても室内の光景に特別な変化はないはずなのに、もう戻って来ないとなると、同じ光景でも、まるで別物に感じられて寂しかった。
 先の見えない身の上を凝視すればするほど、奇跡でも起こらない限り、もはや生き残る術はないように思える。壇ノ浦で入水した平家の知盛ではないが、私も、この世で、「見るほどのものはすべて見た」気持ちだったし、死は眠るようなものだと思っていたから、後は、観念さえすればケリはつくはずだった。
 痛みが去らず、例えようのないだるさに四六時中悩まされていて、一向に治癒する気配のない身体にも、自ら引導を渡してやりたい苛つきもあった。
 辛うじて踏み留まっていられるのは、必ずや、シェリフたちに一矢報いてやりたい復讐心に燃えているからに他ならない。

 シーナが去って半月も経過した頃だっただろうか、空き家同然のガランとしたリビング・ルームの電話が鳴った。丁度、証言台に立った裁判所から帰宅したばかりで、疲労困憊していた。
 シェリフが踏み込んだのは、私の現住所に間違いないと証言をするための出廷で、私と一緒に事件に巻き込まれて逮捕された青年の一人が刑務所からコレクトコールの電話をしてきて、私に証言を頼んだ、あの件だった。
 つまり、私を含めた彼らは、シェリフの一団に、急襲する場所を間違えて踏み込まれたのだから、事件の起こった日のあの時間帯に私の家に居たということは、シェリフが立件すべき事件の不在者証明となって、私の証言は、彼らにとって、重大な要点たり得るのだ。
 問題は、アリバイが成立するにもかかわらず、裁判の状況は青年たちに有利にはならず、彼らの弁護士は陪審員の不理解を嘆いていたから、その件か何かで、電話がかかってきたのかと思った。
 電話の相手は小池智子(仮名)と名乗り、現在、LAで短歌会を主宰している谷川トミ(仮名)という女性と文芸誌を発行するので、そこに小説を書いてくれないか、との話だった。何故、私のところへそんな話が来たかといえば、前にも少し触れたが、私は『南加文苑』という文芸誌に短編の小説を書いていたことがあって、小池智子も谷川トミも同じサークルに所属していた関係上、両人ともに面識があり、その縁で連絡が来たというわけだった。
 しかし、所属していたその文芸サークルもあまり長くは続かなかったから、小池とは数度、谷川と会ったのは一度くらいしかなかったのではなかろうか。
 小池智子は四十過ぎの女性で、誰もが敬遠する手作りの製本作業を進んで手伝ったりしていたから、熱心な会員だったと思う。四十過ぎだと覚えているのは、数年前に、四十路になった心境を発行したばかりのエッセイで発表していたからだ。
 なかなか覇気を感じさせる文章だったが、気負い過ぎて、読む人に生意気と思わせたのだろうか、発行後の読後感想会の場では、皆から徹底的に酷評されたのを鮮明に記憶している。
 あまりに皆の攻撃が酷いと感じたので、私は、彼女の文章は正確で、一字の誤字もなかったと援護した。その号の大半は私が和文タイプをしたから、皆の文章の癖や誤字などは、全て、把握している。和文タイプは、原稿の一字一字の活字を拾ってきてタイプするのだから、これ以上の精読方法はないのだ。
 小池智子は、私の住所を訊ね、近いうちに編集の打ち合わせに来たいと告げて電話を切った。
 (また、小説を書くのか・・・)
 私は、小池に書くと返事をしたのだ。
 悶々と暮らすだけの日々に、何か新風を吹き込みたかったのが、執筆を引き受けた理由だった。何かに没頭出来るものを見つけなければ、知盛の霊に取り憑かれないとも限らない。辛い現実を忘れるには、小説の仮想世界にのめり込むのが一番で、今の自分を救える唯一の手段ではないかと思い至ったのだ。
 となると、活力に溢れて謎に満ち、恋愛の濡れ場も容赦なく描いて面白くしないといけない。自分を救うために書くのだから、読者よりも、先ず自分が楽しまねば全く価値のない小説なのだ。
 私は、長編を連載することに決めた。
 時間に束縛されずに思いっきり自由に活動させるために、活発な盛りの高校生を主人公にして、時間軸は夏休みの一ヶ月間とした。そして、話を豊かにする手段として、外地(カナダ)帰りの二十代の男性を二番目の主人公格に置いた。後は、この二人に関わる様々な人物の相関図を書いて、物語の大まかな筋書きを作り、大事なポイントは別枠にメモに書き込んでいく。
 縦糸とする謎は殺人事件、活力の根源は空手の立ち回りを取り入れた。横糸の恋愛は性に奔放な女性を一人設定し、モデルは家を出て行ったばかりのシーナにキャラクターの一部分を重ねる。私が彼女に水をぶっかけようとした出来事もエピソードとして使えると、メモに残した。そして、人物名には拘りのない話なので、安易だが手っ取り早く、私の古い友人、知人の名を拝借した。
 この、あらゆるジャンルを一緒くたに盛り込んだような小説の執筆は、思いの外、現実からの逃避という意味では効果があった。元々、やり始めたら熱中する方だから、小説を書いている束の間は、疫病神や死に神が顔を出す現実を忘れられる。

 電話があって数日が経過したある日、小池智子は、古いビュイックに乗って私の家にやって来た。先の電話で、シェリフに蹴られて手術を受けた話はしていたから、彼女もある程度は予想していただろうが、実際に私の家の中を見たときは、さすがに驚いた様子だった。
「台所に、何んにもないけど・・・」
 彼女は、手みやげに持参したデイツ(ナツメヤシ)を置くために覗いたキッチンを見て、あきれたような声を出した。
「・・・」
 私は、苦笑するしかなかった。
 多分、まともな人の目には、とても普通の生活を維持出来る住まい環境とは思えなかったかも知れない。ま、重傷を負った男が、そのように劣悪な環境の中で、酷い現実を忘れるために小説を書いているのだから、まともな住人ではないのは、確かなのだが。
 小池智子は、今度出す文芸雑誌の名前は『移植林』だと言い、休刊となった『南加文苑』の旧会員も誘っているから、谷川トミが主宰する短歌会の会員の他にも、新たに、あと数名は参加するかも知れないと語った。彼女の弁では、短歌やエッセイを書く人は数多居るらしいのだが、小説を書く人はいないので、私の長編でページ数が少々増えたとしても、差し支えはないようだった。彼女は、私に、編集スタッフとして参加して欲しいと付け加えた。
 私には、正直なところ、文芸誌作りにはあまり興味はなかった。正確には、興味のあった時代は過ぎたと言うべきか。
 俗に三号誌といわれ、同人誌は長く続かないと相場が決まっていたから、出来るなら、労多くして功の少ない発行や編集の側にまわるのはご免こうむりたかった。彼女たちと一緒だった『南加文苑』の前には『柊葉』の同人として、主宰の苦労を身近で見ているし、私自身、『羅門』という文芸誌を一回発行した経験があるので、台所事情は十分に分かっている。要するに、赤字を覚悟しなければ続かないのだ。しかし、これからやろうとしている人たちの情熱を削ぐような真似はしたくなかったので、縁の下の力持ちのような格好で、出来る協力はしようと思った。
 小池智子は、今度は谷川トミと一緒に来るから、と言って帰っていった。

 日本人と会って喋ったのは、何日ぶりだっただろうか。私の中で何かが弾けたように、蠢くものを感じていた。覚醒というか、このままではいけないというような危機感が湧いてきたのだ。こんな身体で何が出来るか知らないが、とにかく何かしなくてはダメになってしまうのは、火を見るよりも明らかなのだから。
 生き延びたいなら、どんな状況下でも、例え這ってでも、生き抜く努力をしなければ何事も始まらないのだ。
 彼女が持参したデイツを囓りながら、私はキッチンのテーブルに邦字新聞を広げて、求人欄に目を通した。新聞はデイツと一緒に置いてあったもので、暇つぶしにと、小池智子が気を利かしたものと思われた。
 数多ある求人広告の中で興味を惹いたのは、住み込みのクック募集で、少人数家族の日本食を作る仕事だった。住み込む家はビバリーヒルズで、面接の場所はダウンタウンのヒルトンホテルに隣接するビルの一室だった。
 私は、早速、電話で面接を申し込んで、先方の了解を得た。
 ビバリーヒルズといえば、スターや富豪の屋敷が集まっている場所として、世界に聞こえている。つまり、金持ちの家族に、毎日の食事を用意するのが仕事なのだ。
 問題は私に出来るかだが、むろん、答えには疑問符が付く。
 ただ、以前に日本食レストランで働いていたことがあり、傾きかけたレストランに入って、店を盛り返した経験もあった。アメリカでの話で、今は仕事も異なるので、クックとしての長い経験はないが、一般的な家庭の料理なら、やって出来ないことはないだろうと思った。
 街の書店の棚にはレシピーや料理の本で溢れているし、何より、主婦であれば誰もがやっている仕事なのだから。
 とにかく、数日後に設定された面接を受けてみるのが先決だった。
 それまでは、何もかも忘れて、いつも通りに、小説に没頭していればいい。
 私は邦字新聞をテーブルの脇に押しやり、その場所にメモを記したノートを広げて、登場人物たちの個性を探った。
 自分たちの上に君臨する対象として、人は神の存在を認めている。人に対して絶対的な存在ゆえに、換言すれば、人は神の子供だと考えることも出来る。だとしたら、脈絡からいけば、その子供たちも神ではないか。私は、小説の仮想世界で動き始めている登場人物たちに思いを馳せながら、そんなことを思った。
 そういえば、西洋の神話も日本の神話も、神々は非常に人間くさい。目的や手段となると、これはもう、人間の極悪人が後ずさりするほど、酷いことを平気でやったりする。私は、私の頭の中で息づき、行動する若者たちが、段々、神話の神々のように思えてきて仕方がなかった。若い、蒼き神々たちだ。
 普通、たち(達)という接尾語は尊敬すべき対象には付けないが、彼らは神々であり人間だから、神々たち、だ。
 私は、小説の題名を『蒼き神々たちの夏』と付けることに決めた。

 新聞の求人欄で応募していた面接の日が来た。
 身支度をして鏡を覗いてみると、そこには、病み上がり、というよりは病の真っ只中にいる男の貌があった。青白く痩せ細り、健康には程遠い感じがする。我ながら、これでは採用は無理だろうな、と思わざるを得ない。しかし、今更取りやめるわけにもいかず、とにかく、会うだけは会って来ようと、気持ちを奮い立たせるようにして、私は家を出た。
 バスを乗り継いで、七番街で降り、目的の建物を探して一階のホールに入った。
 エレベーターの前に掲示してあるオフィスの名前を見ると、大手の日本企業も数社が入居していて、目的のオフィス名も、その中にあった。
 応対に出たのは若い女性事務員だったが、すぐに、日本人にしては上背のある四十がらみの男性に替わった。男は田村(仮名)と名乗り、私を応接室に案内した。
 採否の結論はと言えば、その場では判断しかねたようで、田村は私をビバリーヒルズの家に案内すると言った。私は既に疲れが出ていて、すぐにでも帰って休みたいのが本心だったが、二つ返事で肯いた。
 ビバリーヒルズに向かう車の中で、田村は、会社の概略を私に話した。
 彼の話によると、本社は東京にある不動産会社で、カリフォルニアで新たに事業を展開するために進出したという。日本ではここ数年間、好景気が続いていて金回りが良く、所謂、バブルの様相さえ呈しているらしかった。
 しかし、その社長はといえば、一年に二回か、多くても三回ほどしかアメリカには来ないらしい。家族がアメリカにいるのなら、どこか辻褄が合わない気がしないでもなかったが、私はその疑問を口にはしなかった。
 車は、ビバリーヒルズの坂を上り詰めた場所にある、大きな邸宅に入った。
「着いたよ」
 田村は、私に言った。
 
車が止まった。
「一応、キッチンのことや何かを説明しとこうと思うから・・・」
 田村は、そう言って車のドアを開けた。
 目の前の邸宅と呼ぶにふさわしい建物は、ふもとの市街から七、八分くらい登坂を要した山頂近くにあって、辺りの家々と同じく、樹木や生垣に囲まれた喧騒とはまったく無縁の世界だった。
 キッチンの勝手口は向こうのガレージの脇辺りにあるようで、私は返事をして、先を歩いてゆく田村の後に従った。彼は、母屋から鍵状に突き出た格好になっているガレージの前を通って行く。
 ドアが開いたままのガレージの中には、メルセデス・ベンツの赤いコンパーチブルのスポーツカーが停まっていて、後ろのやや高い棚に、同じ色のハードトップが、忘れられたように置いてある。
 田村は、勝手口のドアノブに伸ばそうとしていた手を側の防犯装置にやって、
「二、三の機能があるけど、ま、おいおいと・・・」
と言って、やり過ごした。
まだ雇うとも決まっていないので、取り扱いの説明は省略、ということらしい。

田村に習って、戸口に靴を脱いで建物の中に入ると、そこがキッチンだった。中央にストーブ・レンジと調理台を配し、側に水場の流しなどを置いた設計で、広さは、百六、七十スクェア・フィートほどはあるだろうか。高級建材を惜しみなく使った豪勢な造りだった。
小さなレストランの席数くらいは賄えそうな広さと、仮に、二、三人の料理人が入ったとしても、互いの領域を邪魔することなく働けそうで、使い勝手の配慮がなされている。
このような規模の邸宅で、多人数のパーティが最初から念頭にあるのは、勝手口のところに、大きなウォークインの食品収納倉庫が備わっていることからも想像がつく。

田村が勧めたので、私は収納庫の中へ入ってみた。調味料や乾物類、麺類から穀物の類に至るまで、様々な食材がラックに整然と並んでいて、売店の棚を思わせるほどだ。しかし、高級ブランドの洋酒類は別として、殆どが日本食の材料で占められているところから、この邸宅の主は、日本食以外の料理にはあまり執着がないのかも知れない。
ただここに来る道々、田村の話で、私が食事を用意する相手は、通常、主の若い女性一人分だけだと聞かされていたので、だとすると、この収納庫の在庫はいかにも量が多い気がした。死蔵というか、賞味期限が過ぎれば廃棄処分が待っているだけだから、これらは、人間の胃袋よりゴミ箱へ行くのが殆どのはずで、無駄以外のなにものでもない。
もったいない話だったが、採用されるかどうかも分からないのに、そんな心配は余計なお世話だとすぐに思い直した。否、もし採用されたとしても、歴代のクックたちの間で慣習となって定着している収納庫の管理方法を簡単に変えられるかどうかは疑問だ。食料品の鮮度という観点からも、在庫は減らすほうが良いに決まっている。だが、私には無駄を断ち切る大鉈を振るう自信は持てない気がした。会社や邸宅の住人がそれを望まないと思うからだ。
いずれにしても、これだけの量の食材消費先が、ダイエットを金科玉条とする若い女性と、大きな手術を終えたばかりで食の細い私だけだとしたら、この立派なウォークインは、頭痛の種なだけだ。
見た目には何一つ他と変わらない期限切れの食品を、封も切らずにゴミ箱に捨て続けるのは想像するだけで苦痛だが、やはり、富豪と庶民の間には、埋め難い感覚の格差があるようだった。

「この人たちは・・・」
収納庫から出た私に、田村は二人の女性を紹介した。
一人は黒い髪を引っ詰めにした四十半ばか五十年配の東南アジア系で、幼児を抱いていた。幼児と言ってもまだ歩ける歳ではないようなので、赤ん坊と言ったほうが早いかもしれない。
自己紹介によると、彼女はテレサ、フィリッピン女性で、住み込みのベビーシッターだという。食事は、暇を見て自分の口に合うものを自炊しているので、私の仕事には含まれない。
もう一人は、白髪のウェーブを短めに整えた七十年配の日系婦人で、沢田といい、通いで、掃除やその他、細々とした雑用などの仕事をやっているらしい。彼女は毎日弁当を持参し、夕食は家へ帰って摂るので、これも、私の仕事の範疇には入らない。
彼女たち以外にも働いている人はまだいるようだが、今の時点では別に知りたくもなかったので、とくに訊くことはしなかった。
「好美さんは?」
田村は、日系の沢田婦人に顔を向けた。
「まだ休んでおられるようですよ。ゆうべは、遅かったようですから」
丁寧な言い回しながら、どこか皮肉めいているようにも聞こえ、いかにも日本風な年齢差や立場の違いがそこはかとなく漂っている。
「そう・・・」
田村はそう言って、頷いた。
正午にはまだ間があるにしても、こんな時間まで朝寝を決め込んでいられる人物なら、当然、使用人ではないだろう。住み込みの従業員なら、「そう」の一言では済まない。
つまり、どうやら、好美さんなるこの家の主は朝寝をしていて、田村は困った顔はしたが、遠慮があるらしく、起こすつもりは更々ないようだった。何故なら、彼は隣の部屋のテーブルで新聞を広げ、私には、
「あそこがクックの人の部屋で、それから、そこの棚に本がありますから」
とキッチンの奥まった場所の部屋を指し示した後、ついでに、すぐ近くの書棚も指差したからだ。
部屋を見た後は、本でも読んで時間をつぶしてくれとの意味だと理解し、私は、言われた部屋の方へ行って、そこのドアを開けてみた。
シミひとつない四畳半ばかりの白壁の部屋は、シングルベッドと小机が並べて置いてある。空部屋だから当然だが、生活臭が感じられず、出入りの激しい病院の空室のようだった。そのせいだろうか、長続きしなかったクックたちの寝起きの様子が、ふと、目に浮かんだ。気に入らない職場ならすぐにケツをまくるのが、私の目にした平均的なクックたちの気質だったが、私は、彼らの堪え性のなさを責める気にはならなかった。
見ていないので他の部屋の様子は知らないが、この邸宅の外観や豪勢なキッチンの造りから比べると、クックの部屋はいかにも狭く、そしてあじけなかった。田村がオフィスで私に示した給料の額で明らかなように、薄給と相まって、仕事の内容や遣り甲斐にも不満はあったのかもしれないが、案外、この部屋から無言で伝わる、雇い主の使用人に対する意識にこそ、一番、我慢がならなかったのではないのかと、ふと思った。
むろん、そんな彼らと私とは一緒にはならない。
言わば、彼らは普通の人たちで、私の方は、はるかに普通以下だったからだ。頼りになる身寄りとていない異国で、一向に去らない痛みと痩せこけた体を持て余し、経済的にも困窮している。進退窮まり、明日への一縷の望みさえも持てない身の上だった。こんな目に遭わせたシェリフたちを法廷へ引っ張り出すことだけを生き甲斐にし、暗い情熱を燃やしているような男なのだ。
とてもじゃないが、この邸宅のキッチンに立った歴代のクックたちのように、人並みに不満や不平を口にできる身分ではなかった。雇ってもらえるだけで有難いし、今の私に、食い扶持と寝る場所が保障されるということは、夢のような話なのだ。
それにやるべき仕事は、たった一人分だけの食事を用意すればいいのだから、実際、これ以上の条件は望むべくもない。出来れば、必ず雇ってもらえるよう、祈るような気持ちだった。

田村はまだテーブルで新聞を広げていて、向こうのほうから、沢田さんが使っているのか、掃除機の音がしていた。赤ん坊の泣き声とそれをあやすテレサの声も混ざり、この邸宅の日常の光景が展開されているようだった。ただ、何かを指示されない限り、面接に来た私にはやるべきこともない。所載なく、キッチンの端の書棚にぎっしりと並んでいる料理の本の中から、適当な一冊を取り出してページをめくった。
棚には実に多くの、あらゆる種類の日本料理の献立本が揃えてある。これらは、歴代のクックたちがこつこつと買い集めたもののようだった。日ごろ口にする様々な家庭料理はむろん、弁当から精進料理に至るまで何でもある。
十四、五分も料理本に目を落としていただろうか、新聞をたたむ音がしたので田村の方に視線を移すと、彼は自分の腕時計を見て、
「ランチには少し早いけど、腹減ったから、冷蔵庫にあるものを使って、何かつくってくれない?」
と言った。
どうやら、実技試験のようだった。
「はい」
私は、読んでいた本をたたんで、元の棚に戻した。
「あ、二人分ね。後で、もう一人分必要だから」
「分かりました。何か、苦手な食べ物はありますか?」
「いや、特にないけど」
「・・・」
私は咽喉から出かかった、「好きなものは?」という問いかけは呑み込んだ。食は、何よりも人をもてなす気持ちが大切だと信じるが、これは採用試験だ。食材も調べずに余計なことを言えば、選択の幅を狭くして、自らの首を絞める羽目になる。
冷蔵庫の中にどんな材料があるのか。それによって素早くメニューを決め、手際よく調理しなければ、採ってはもらえないだろう。むろん味も大切だが、相手は、食材を活かす応用力と調理技術を見ようとしているのだ。何故なら、これらの能力こそが、クックの経験を裏付ける証だからだ。
私は冷蔵庫の前に行って、ドアを開けてみた。
前のクックが去って日にちが経っているのか、業務用とも見紛う大型冷蔵庫の中は、ウォークインのときの印象とは違い、内容量はそれほどでもなかった。それでも、ねぎ、人参、ジャガイモ、大根など、日常使う野菜や、日本食には欠かせないナス、キュウリやオクラ、大葉なども少量残っている。入れ物が大きいので、少なく感じただけかもしれない。
となりの冷凍庫には、イカやサーモン、その他二、三の魚介類が小分けにして保存されていた。
私はメニューを決める前に、大小、二つの鍋に水を入れて火にかけた。
小鍋は汁物のミネラル・ウォーター、大きめの鍋は茹でるのに使うので、水道の水を半分ほど入れた。次に冷凍庫のイカと、真空パックのスモーク・サーモンを冷蔵庫から取り出した。
サーモンは最初、レモンとオリーブ・オイルを使ったポピュラーなマリネにしようかとも考えたが、つい先ほどの家庭料理の本で目にして美味しそうだったマヨネーズとポン酢で和えることにした。イカは、ジャガイモと煮付ける。所謂、イカジャガだ。
早速、私は半解凍にセッティングして電子レンジにイカを入れ、ジャガイモの皮をむいて四つ切にした。イカジャガは、普通はイカとジャガイモだけだが、冷蔵庫に小さ目のサトイモもあったので一緒に煮付けることにし、皮を取って、これは二つ切りにした。醤油や味醂で煮汁をつくり、和え物用に、大根を銀杏切りにして湯鍋に入れる。ついでに、大葉も千切りにした。

出来る限り合理的に、手早く調理を進めたのが奏功して、三十分後には全ての料理が完成した。
深めの小鉢に天盛りにしたスモーク・サーモンは、食卓に出すまでの間、冷蔵庫に入れて少しでも冷やしておくことにした。イカジャガは、これは出来るだけ味を含ませるために鍋の火を止めた状態のままにして、食べる直前に盛り付ける。ワカメと豆腐の味噌汁も同じく、ストーブの上だ。
「調理出来ましたが、テーブルに置きますか?」
試験の最後の詰めに、私は田村に訊いた。彼は、
「一人分、私の分だけ用意してくれますか?」
と、単調な返事をした。
私は言われたように一人分の食事を彼のテーブルに運んでいたのだが、そのとき、長い髪を手でかき上げながら、パジャマ姿の若い女が現れて、
「あら、おいしそう、私のもある?」
と、田村に訊いた。
彼は椅子から立ち上がって、
「好美さん、お早うございます」
と挨拶をして、私に二人分の食事を用意するよう言い直した。
彼女は私と視線が合うと、ちょっとはにかむような表情をしたが、すぐに、誰?というように田村に目を向けた。
「あ、クックの募集で来た人で、今、この食事を作ってもらったところです」
彼は雇用関係を成立させるクックとは呼ばずに、募集を付けて私を紹介した

インディアン サマー(七)

杉田廣海

 手を伸ばした田村が自己紹介を促したものと受け止め、私は彼女の方へ向き直り、軽く頭を下げて自分の名前を言った。
「あ、田村さん、あれからどうしたの? 上手くなったよねぇ・・・」
 好美は、私の存在など気にも留めないそぶりで目を逸らし、田村に話しかけた。
 私にとっての目下の重大事は彼ら二人に食事の用意をすることなので、何も聞かれないのなら好都合だと、すぐに、一人分の食事追加に取りかかった。
 自営でハウス・ペイント業を始めるまでは、戦場のように忙しいレストランばかり渡り歩いてきたから、キッチン仕事の手の早さだけは自信がある。彼らが昨晩行ってきたらしいカラオケの話題に興じている間に、二人分の朝食を素早くテーブルに並べて、私はキッチンの椅子に腰掛けた。そして、何もすることのない手持ち無沙汰を解消すべく、先ほど、調理の前に読んだ料理の本を再び本棚から取り出しのだが、既に賽は投げられた後だ。最早、作る必要もない献立への興味は湧かず、ただ単に、料理のカラー写真に視線を落としているだけだった。
 視線に集中力がない分、聴覚の方はダンボの耳状態で、食事をしながらの彼ら二人の会話がやけに明瞭に聞こえてくる。話の内容から推測すると、他の人も交え、彼らは頻繁にカラオケ通いをしている様子だった。田村は中年男性にしては、覚えるのも苦痛な今時の若者の歌曲が得意だと見えて、好美が笑いながら褒めちぎった。
 彼は調子に乗って、サビらしきさわりを歌って見せたりしている。
 田村は意識的にそうしているのか、彼女との会話は、主従の枠を越えたフランクな口調に終始していた。しかし、どこか不自然で、無理をしている感じが否めない。背伸びはしても、彼女の背後の大きな影に萎縮して、おっかなびっくりな態度が隠せない印象なのだ。少々、下卑た表現をすれば、ヤクザの大親分の新しい女に接している少し歳を喰った子分といった態か。
 好美は見たところ二十代前半くらいで、美人の部類には入るだろうが、かといって、このような大きな邸宅に住む若奥さま風には見えない。声には若さとそれに見合う華やかな響きはあっても、言葉の端々に蓮っ葉な雰囲気が漂っている。田村をヤクザの歳喰った子分に喩えるなら、好美は、夜の街に飛び込んできて親分の女になった上昇志向の強い地方出の娘といった役どころか。いずれにしても、彼女には派手で賑やかな都会の歓楽街が似合う。
 実際の話、この邸宅の持ち主は、関連会社を多数有する日本でも大手の部類の不動産会社で、個人資産も百億円を超すだろうと、会社の概要を私に説明した折り、田村がちらりと口にしている。ヤクザも不動産屋もボスの手法は利権を嗅ぎ分け、大きな人材組織を動かすという意味においては似たようなものだろう。下卑た喩えも、現実と大差ないのかも知れない。
 尤も田村はすらりと背も高く、男ぶりも悪くない堅気な会社の営業マンで、決して暴力を売り物にするヤクザに見えるわけではない。比喩は、彼のどこかぎこちない、好美に対する印象が創り出した私の妄想に過ぎなかった。

 歓談しながらの彼らの朝食が終わったのは、それから三十分かそこらが経過した頃だっただろうか。テーブルを立った田村と好美の二人は、私には何も言わずに居間の方へ移動して、そこのソファで再び歓談の続きを始めた。
 後片付けをしようと行ってみると、テーブルには食い散らかしたような無惨な状態で食器が載っている。
 中には空の皿もあったが、料理の残った器は箸で突っつかれて、残飯が食器の周りのあちらこちらに散らばっている有様だ。特に好美の膳は酷い状態で、綺麗に食されている器は一つもなく、片方の箸はといえばテーブルの真ん中の方に転がっている。
 正直、一体全体、二人ともどんな育ち方をしたんだという思いだった。
 中国料理は、食事を十分に堪能したと示すために、テーブルが汚れているほどマナーに適っているとどこかで聞いたような気もするが、日本料理は違う。綺麗に食べるのがマナーなのだ。
 これは、動植物に対する日本人の生命観を縦糸にして、食材に関わった人たちへの感謝の気持などを交差させ、独特で繊細な物の哀れの情感をもって食の畏敬へと織り込んだ日本人の心根と言ってもいい。兎に角、嫌いな物を残すのは仕方ないとしても、食い散らかすような食べ方を見るのはご免蒙りたかった。
 私はテーブルを見て、腹が立つより情けなさの方が先に立った。
 今すぐに採用か否かの返事を聞き、不採用なら片付けは私の仕事ではないので帰りたいところだが、足がない。嫌でも田村の車に乗せてもらうしか方法がないのだ。
 身体が普通で、困窮さえしていなければと、悔しい思いがこみ上げる。困ってさえいなければ、採否の返事など聞くまでもない。こちらからお断りだった。
 私は自分の感情を押し殺して、テーブルの後片付けを始めた。
 水道の蛇口をひねって、シンクで彼らの使った食器を黙々と洗っていると、ふと、今の情けない心境と全く同じ経験を、いつかどこかで経たような奇妙な既視感が私の脳裏を過ぎった。不思議なのは私が男としてではなく、哀しみを女の情緒で受け止めたような気がしたことだった。
 私は内心吃驚して、ほんの一瞬にしても、感性がどうして女の心境に入れ替わったのだろうかと自問した。
 遠い過去の日の幼児体験として、台所で泣く母の立ち姿が、意識はなくとも、心の奥深く仕舞い込まれた深層心理となって、ふいに頭をもたげてきたのだろうか。それとも、過去に私に係わった女たちの残映だったのか。
 否、そんな訳の分からない理由なんかではなく、単に、つらい現実からの逃避するための格好の手段として、精神分裂症じみた妄想が湧いたのが本当の理由だろう。
 これしきのことで情けない、と私は思った。手術後の体調不良で、少々、神経が過敏になっているようだ。普通なら気にも留めない事柄を大げさに受け取ることが、既にピリピリしている証拠だった。
 今の私に一番必要なのは、働き場所なのだ。
 雇用主が誰であろうと関係ない。やることをやり、責任を果たす。そして、少しでも身体を癒やす時間を稼ぐ。これが何より大事なのだ。尤も、果たして時間が傷めた身体を癒やしてくれるのか、それとも実際は悪化していて、反対に寿命を縮めているのかは定かではなかった。
 私の、真の不安はそこにあった。体調が上向く気配が全くなかったからだ。初期の膵臓癌の患者が手術を受けても、殆ど助からないのが現実で、五年持てばいい方だと言われている。二年か三年が限界で、それ以下だってあり得るのだ。つまり、私は、自分の命はあと一年か二年だと思っていた。

「ああ、もう片付けものは、済んだんだね」
 使った食器や鍋類の洗い物を終えて、例によって料理の献立本に目をやっていると、田村がやって来て言った。
「はい・・・」
 私は椅子から立ち上がって、返事をした。
「一応、採用することに決まりました」
 田村が、笑みを浮かべて言った。
「食事は、まァまァ旨かったし、好美さんもオーケーを出したから、早速、明日から来て貰ってもいいから。キッチンの向こうがクックの部屋だけど、でも、しばらくは通って貰った方がいいかな・・・」
「いえ、すぐに引っ越してきます。荷物というほどのものもありませんし、私には、その方が好都合ですから」
 私は強く言い募った。通うとなると予定が狂う。
 もはや、身体に負担のあるハウス・ペイントのような仕事は出来そうもないから、商売用のトラックは数日前に売却していた。だから、今の住所からここまで通うとなると、早速、足に困るのだ。
「分かりました。それじゃ、そうして下さい」
「はい」
「やる気、満々ですね」
 田村は、嬉しそうに破顔した。
 彼は後に引けない私の申し出を意気込みと受け取ったようだが、一概に間違いとも言えない。何故なら、やるからには、雇用主に喜んで貰えるよう一所懸命にやるのが当然で、がっかりさせたくはないからだ。
 彼は仕事の内容やその他の細々した説明をしたが、切れた電球の類を交換する以外、基本的には、キッチン仕事の枠を越える要求はなかった。
「それでは、よろしくお願いします」
 私は、田村に頭を下げた。
「よろしくね。あ、それから、車は明日にでも用意するから。それを使って買い物やなんかをして貰ったらいいから」
「はい・・・」
 私は返事をしたが、車の心配がなくなって少し安堵するような気持だった。
 私は車を持ってはいないし、ガレージの中には赤いベンツのコンバーチブル以外、他に車は見当たらなかったので、買い物などはどうしたらいいのかと、内心、心配していた。
 それにしても、こんな大きい邸宅に車が一台だけとはと意外な気がしていたので、私はその疑問を田村に訊いてみた。
「今、車は赤いベンツだけですか?」
「ああ、オーナーは日本で、ここに来るのは年に二、三度だけだから要らないんだよ。来たときは、好美さんの車に乗るからね」
「はあ・・」
「前には大きなベンツがあったんだけどね。盗まれた」
「え、こんなところにも、車ドロボーがいるんですか?」
 高級住宅地といわれているビバリーヒルズのような場所でも車ドロが徘徊しているとは想像だにしていなかったので、私の反応は、少々大げさだったかも知れない。
「いや、これはね、ちょっと違うんだ」
 田村は、どうしたものかとほんの少し思案気な顔つきをしたが、すぐに、
「実は、盗ったのは知り合いの日本人だった」
と言った。
「え?」
「車を売った人間が盗んだんだよね・・・」
「売った人が盗んだって、どうやって?」
「合い鍵を作っていたようでね。だったら、盗むのは簡単だ。一回で何万ドルの金が転がり込んでくるんだから、いい手口だよね・・・」
「・・・」
 田村の話を、にわかには信じられなかった。
「だけど、ほんとに、その人が盗んだんですか?」
 断言できるだけのはっきりした証拠はあるのか、その人は今どうしているのかなど、もっと具体的に訊いてみたかったが、他人事なのに詮索が過ぎるような気がして言葉を曖昧にした。
「それは、色々な状況からして、間違いないよ」
「そうですか・・・」
「しかし、馬鹿なやつだよね。はした金なんか盗むより、ここのオーナーと長い付き合いをした方が遙かに得なのに。馬鹿なやつは、そこんとこの勘定が出来ない。いや、これは僕じゃなく、後でオーナーが言っていたんだけどね」
「・・・」
 もしも、本当の話なら田村の言うことは尤もだが、証拠を以て罪を立証出来ない限り、彼の話は単なる誤りだけではなく、他人の人権をも侵害する質の悪い流言飛語と言わざるを得ない。
「その人は、どう言っているんですか?」
「自分から盗んだと言うやつはいないよ」
「・・・」
 やっぱりと、私は安堵と気落ちの入り交じる思いで頷いた。
 要するに、確固とした証拠のある話ではないのだ。
 安堵は、車を売った日本人の犯罪だと必ずしも断定され得ないことで、気落ちしたのは、こんな金持ちのビバリーヒルズの住人なのに、当てにならない推測だけで知人を犯罪人扱いしていることだった。
 どうやら、世に富豪といわれる人種は、案外、猜疑心が強いらしいと、私は、内心思った。
「さてと、車は明日来るから、軽い引っ越し荷物だけなら、その車を使って引っ越しをしてもいいから」
 田村は、私にそう言いながら、背広の内ポケットから封筒を取り出した。
「これは当面の食材を買うお金で、千ドル入ってる。買い物をしたら、忘れずに必ず領収書を貰って下さい。月末には買い物の明細とその領収書を添えた書類を作って事務所の方へ出すようにね。お願いします」
「分かりました」
 私は、お金の入った封筒を受け取った。
「足りなくなったら、電話で知らせて貰えばすぐに届けるから。それと、食材に使うお金はケチらないでいいから、毎日、美味しいものを好美さんに食べさせて上げてください」
「はい・・・」
 どんなものが好物なのか知らないが、出来る限り、彼女の意に添う食事を用意するように心がけようと思った。
  
 次の日、田村は、事務所を訪ねた私を自分の車に乗せてビバリーヒルズの家まで送ってくれたが、手配している車を受け取りに行くからと、私を降ろして、とんぼ返りをするようにすぐに帰って行った。
 一人降り立った私は、昨日のようにガレージの前を通って裏口に回り、ドアの呼び鈴を押した。
 中から出て来たのは昨日挨拶を交わした日系の老女だったが、どこか様子がおかしく落ち着かない風情だったので、中を覗くと、黒いスーツを着た大男の白人三人が室内をウロウロしているのが見えた。
「誰?」
私が訊くと、彼女は小声の日本語でポリスよ、と答えた。 以下次号

 日系の老女、確か、沢田と自己紹介した人だが、
「こんなに早くからね・・・・」
 と、白人の男たちを目で指して顔をしかめ、囁くように言葉を繋いだ。
 私は、どう返事をしたものか分からず、わずかに微笑んでみせた。
 こんなに早くからという悠長な物言いから判断すると、彼女は、前にも刑事がここに来て知っているようにもとれた。彼らと初対面でないのなら、既に何度か、調査に来ていることになる。
 ここら辺りの刑事が、コソ泥ごときに何度も足を運ぶはずはないから、少なくとも、泥棒に入られるよりは大きな事件があったのだろうが、むろん、今日が仕事の初日で
ある新参者の私に分かることではない。そして、このような富豪の邸宅だから詐欺か何かの被害に遭ったのかと思わなくもなかったが、だとしたら、当然、マネージャー役の田村が立ち合うはずなのに、彼は警察が来ていることも知らずに、私をここに降ろしてすぐに去ったのだから、それも的を射てはいないだろう。
「好美さんは?」
 私は、沢田さんに訊いた。私にとって、警察など、どうでもよかった。そんなことより、彼女が起きていれば、今朝、食べたいものを訊こうと思ったのだ。
「自分の部屋でしょう。他のポリスと話してると思うけど」
 彼女は、そう答えた。
 え、まだいるのかと、私は三人の男たちの他にまだ刑事がいると知り、その人数に少し驚いた。いかに暇を持て余しているとしても、余程の重大事件でない限り、四人も五人もの刑事が一度に出張っては来ないだろう。
 これはただ事ではないな、と思った。
 ただ、それにしては邸内に緊迫感は感じられないし、沢田さんも眉を顰めて見せはしたが、特に緊張している風でもなかった。
 私も、刑事たちの来訪の目的を詮索する気は更々なかった。
 所詮は他人事で、人には予期しないことも起こる。つまり、人生は色々あるのだから、そんなことに一々驚いていては身が持たない。明日のことさえ定かでない私に、他人の事件への野次馬根性など、湧くはずもなかった。
「朝ご飯は、食べるのでしょうかね?」
 私は訊くともなく、沢田さんに言葉を向けた。
 目下の私の重大事は、好美さんが今日の朝食を摂るか否かで、私にとって刑事たちは、彼らが好美さんの朝食時間を奪えば、一回分の食事作りの手間が省けるかも知れないと、不届きな考えが頭をもたげるだけの存在に過ぎない。
「さあ・・・」
 彼女は、愛想なく首をひねっただけで、手にした掃除機を抱えて居間の方へ行った。
 私が、刑事が来ている理由を尋ねなかったのが期待はずれで、拍子抜けしたのかも知れない。
 ともあれ、食事の支度が私の仕事で、好美さんが朝食を摂ろうと摂るまいと、先ずは仕事をしようと、ウォークインの整理棚からきれいに洗濯されたエプロンを取り出して身に着け、準備に取りかかった。
 それにしても今時の刑事はパリッとしたスーツにネクタイを着用していて、時折、TVのドラマなどで見かけるヨレヨレのコートだとか、Tシャツやジーンズ姿には程遠い。もっとも、背広にネクタイはビバリーヒルズだけで、他の警察署の刑事はそうではないのかも知れないが、何分、あまりお世話になったこともないし、なるべくなら寄り付きたくもない相手なので詳しくは分からないが、さすがに世界的に名高い高級地の刑事は違うと、私は内心で苦笑した。
 ただ、パリッとしたなりはしていても、一見して、目つきや動作は油断ならないものがあり、普通の会社員とは何か根本が決定的に違う。近頃でこそ見かけなくなっていたが、以前に、私の家のまわりを目立たないように徘徊していた男と同類の、狡猾、獰猛で、危険な匂いを漂わせている。あの男も、後の裁判に備えて、シェリフ局を訴えた私のアラを捜すべく張り込んでいたのだろうが、ご苦労さんと言うしかない。

 結局、聴取だか捜査だか刑事たちの滞在時間が長引いて、好美さんは用意した朝食を食べには来なかった。
 ピカピカに磨き上げられた動き易く大きなキッチンで、私は、今度は昼食の支度をした。箸の付かなかった朝食の殆どは、何点かのおかずを追加して昼食に再利用するので無駄はない。
 聞こえていた沢田さんの掃除機の音がいつの間にか止んでいて、邸内のキッチンでは赤ん坊の泣き声と、それをあやすベビーシッターのテレサの声が時折聞こえるだけで、その他の声や物音はしなかった。
 静かなもので、建物の広さゆえか、刑事たちの気配すら感じられない。
 この様子では好美さんの昼食も又、少しばかり遅れるかも知れないと、私は食卓に、出来たばかりの昼食のおかずを並べて白い布きれで覆い、いつでも食べられるようにしてから、隣の自分の部屋に引っ込んだ。
 エプロンを取ってベッドに寝っ転がり、何気なく傍の日本の雑誌を広げると、一時期、結構、国民的な人気を博していた年配の男性歌手が笑顔でポーズをとっている写真が載っていた。
 美声の持ち主で、祖母がファンだったので心に残っているのだが、それより旧日本軍で、シベリヤに抑留されたときの彼の体験談を何かで読んだ印象の方が大きいかも知れない。飢えと寒さと重労働という過酷な三重苦を強いられ、劣悪な環境に耐えきれずに多くの人がバタバタと倒れる中、芸人だった彼は、浪曲や講談を同僚の皆や上官たちに聞かせて人気者になり、上官にも可愛がられて、幸いに、辛い苛めや飢えは免れたと記事で語っていた。
(芸は身を助けるか・・・・)
 身を助けてくれる域の芸など、凡人の身にはハナから無縁にしても、それに似たようなものなら、文芸という芸事で感じている。誕生したばかりの文芸誌に連載する創作を書き始めてから特に思いを強くしたのだが、これが、膵臓の半分を切除する大きな手術をした後の身の、鬱々として楽しめない日々を過ごす、ささやかな慰めにはなるのだ。
 厳しい季節の中の、ささやかな小春日といったところか。突き詰めれば、芸に助けて貰っていると言えなくもなかった。
 今書き進めているのは現実から小説世界へ逃避する手段としての創作だから、クセが強過ぎて取り扱いに手を焼くような厄介者は登場させない。純文学をやってる訳でもなし、小説世界に入ってまで人間関係で苦労はしたくないからだ。
 もっと言えば、この創作は私にとっては手術後の一種の精神的なリハビリでもあり、その意味では読者の存在さえ余り頭にないのだ。尤も、一応、書店に置いて貰ってはいるが、元々、同好会の会報誌の域を出ていないので、気にするほど多くの読者はいないのが正直なところだが。
 今のところ、特にやることもなくなったので、小説でも書くかと雑誌を置いて、机の上に乗せている電動の和文タイプライターに漠然と目をやっていると、向こうの方で人の気配と食器の音がしたような気がした。私は、多分、好美さんが食事を摂りに来たのだと思った。
 自分の部屋を出てキッチンの向こうを見ると、はたして、彼女がテーブルについて一人で食事をしていた。沖縄美人で、大きな瞳と背中辺りまで伸びているストレートで長い黒髪が彼女を際立たせ、特徴的にしている。
 刑事たちが引き上げたので食事に来たのだろうと思い、私はテーブルの方に歩み寄りながら、
「味はどうですか? 濃くしたり薄くしたりの好みがあれば、次から作るときの参考にしますから、言ってください」
と、訊いた。
「うん、美味しい。これでいい・・・」
「・・・そうですか」
 彼女は短く返事をしただけで、黙々と食事をしている。
 気まずいほどではないにしても、何か会話がないと間が持たない。ちょうど良い機会だから、よっぽど刑事の来訪のわけを尋ねようかと思ったが、事柄が事柄だけに、さすがに躊躇した。
「沢田さんはどうしたんだろう? 今まで居たのに、見えないようだけど・・・」
 結局、切り出せず、差し障りのない、どうでもいいことを、独りごちるように口にしただけだった。
 刑事の来訪目的を根掘り葉掘り訊くのは、今日が初日の、挨拶代わりに顔を出した新米のクックには、明らかに、度が過ぎるマナー違反だった。
「沢田さんなら、今、私の部屋を掃除してるよ。何か用事だった?」
 好美さんは、私の独り言に答えるように言った。
「いえ、用事ってわけでもないけど・・・。でも、家が広いから、掃除をしてても気配もないですよね」
 さっきまで聞こえていた掃除機の音がしないからといって、我ながら詰まらないことを言うもんだと、内心、思った。
「沢田さんも、まだ、ここに入ってあまり間がないのよ。前の人は、メキシコ人の女の人だったけど、盗みをしたから辞めてもらって、その代わりに、沢田さんが来たのよね」
「え、盗み、ですか?」
「部屋に置いてる私のお財布から、何回か百ドル札を盗んだのよ」
「・・・へぇー」
「私は、普段はお金を数えてないから、最初は気付かなかったんだけど、どうも無くなって足りないような気がしてたから、あるとき、八枚の百ドル札をわざと無造作に、部屋に置いてみたのよね」
 彼女の語り口が、どこか、にわかに活気を帯びたように熱っぽくなった。
「どうだったんですか?」
 私も同調して、訊いた。
「やっぱり、一枚足りなくて、七枚しかなかったのよね」
「へーぇ、じゃ、間違いなく彼女が盗んだんですね・・・」
「そう」
 五枚とか十枚でなく、半端な八枚という数が、盗みを誘う罠のようにも思えて、最初に彼女を見たときの第一印象とは少し異なり、好美という女性は中々やり手で、油断ならないところもあるんだなと、感心した。
「で、どうなったんですか?」
 私は、話を促した。
「それが、百ドル札が一枚無くなってるけど、あなた知らない? って訊いたんだけど、知らないし盗らない、の一点張りなのよ。盗ってるのは間違いないのに、絶対に白状しようとはしないのよね。彼女以外に、誰も部屋に入ってないのによ」
「そうなんですか」
「だから、辞めてもらったわけ。泥棒を雇っとくわけにもいかないものね」
「警察には、知らせたんですか?」
「知らせなかった。辞めさせただけ」
「そうですか」
 私は頷いて、言った。
 好美さんと会話らしい会話をを交わしたのは初めてで、案外と気さくな性格のようだが、話題が使用人の泥棒話なのが、ユニークと言えばユニークだった。
 私は、無駄話で長居して、それ以上、彼女の食事の邪魔にならないよう、移動してキッチンの小机の前に腰を下ろした。
 
 彼女の話を聞いて、私は、知人の日系老女から聞いたエピソードを思いだした。
 老女が父親から聞いた話で、サンフランシスコ地震があった年の一九〇六年、まだ若くて独身だった彼女の父親はハワイからカリフォルニアにやって来て、最初はフレスノで農家の季節労働者として働いた後、LAに移動、ダウンタウンの六番街の会社に掃除夫として雇われたという。それは日系人が赤電車と呼んでいる鉄道会社で、そのときの彼はまだ、そこの社長が手広く事業をやっている富豪だとは知らなかったらしい。
 ある日、オフイスの掃除中、床に金貨が落ちているのを見つけて、ちょうど部屋にいた社長に手渡したのだが、社長は彼の正直さに感心し、彼に、結婚して腰を落ち着けて、この先長く、この会社で働いてくれと言ったという。
 彼は、後に、成長した娘にこの話を語って聞かせたのだが、拾った金貨を猫ばばするか否かを、自分は社長に試されたのだと彼女に話したことから、当時の日本人の、意識の高さが分かる。
 洞察力というか、想像力に欠けるメキシコ女とは雲泥の相違だ。
 それにしても、お金を盗んだメキシコ人は解雇しただけだというから、当然、刑事たちは、財布のお札紛失事件には関知していないはずで、したがって、彼らが、ここへ来る理由にはならない。尤も、そんな些細なことで刑事数人が早朝から押しかけるなど、有り得ない話だが。
 どこかから漏れ伝わって耳に入れば別だが、そうでない限り、真相を知ることはないだろうと、私は思った。
 だが、人の口に戸は立てられない。刑事たちが訪ねてきたわけは、意外と早く、それもわずか数時間後に、好美さんが外出したすぐ後で知ることとなった。
 話してくれたのは、ベビーシッターのテレサだった。
 彼女の話は吃驚仰天する内容で、何と、数日前の白昼に、黒人の若い男たち数人がドカドカッとこの邸宅に押し入って来て、ロープでテレサを縛り上げた揚げ句、傍の赤ん坊を攫っていったというのだ。
 早い話が、赤ん坊の誘拐事件だった。
 彼女は、縛られたときの生傷もまだ消えやらぬ二の腕の痕跡を私に見せ、
「その男の一人は、前に見たことのある男だったのよ」
 と、興奮気味の口調で語ってくれた。
「えっ、見たことがあるって、この家で?」
 私はにわかには信じられない気持で、テレサに訊いた。
「そう、好美さんが連れてきたことがあるからね」
「へぇー・・・」
「間違いないよ。同じ男よ」
「その男のこと、警察には話した?」
「話したよ。だって、私が殴られて、縛られたんだからね」
「・・・・」
「私は、直接の被害者なんだから」
「そうだよな・・・・」
 被害者だと言われて、彼女が、興奮気味に私に語って聞かせるわけが少し分かったような気がした。
「でも、赤ん坊は無事だよね」
 私は、彼女が抱いている赤ん坊を指して言った。
「大事件になって、犯人たちがどこかに置き去りにしたって、私はそう聞いたけど」
「だったら、まだ犯人は捕まってないの?」
「捕まってない」
 それで、物々しい刑事たちの来訪の理由が理解できた。
「好美さん、もう嫌になったって言ってたよ」
 テレサの口調に、私は苦笑した。
 多分、好美さんは、嫌になるほどの尋問や質問を彼ら刑事たちから受けたのだと察するが、事件がテレサの言うとおりだとすれば、尋問責めにあってもそれは当然だろう。軽率で愚かな彼女の行為が犯罪を誘発し、それだけの大事件を引き起こしたのだから。
「好美さん、これ以上、刑事に付きまとわれるんだったら、嫌だから、もう日本へ帰るかも知れないって言ってたよ」
「そう・・・」
 やれやれ、と思うしかなかった。
 重要な刑事事件の関係者が、嫌になれば日本に逃げ帰ればいいというのは、安易に過ぎる。
 ともあれ、テレサの話を総合すると、その若い黒人は好美さんの男友だちの一人で、彼女がよく夜遊びに使っているダンスホールかどこかで知り合い、意気投合して以来の付き合いだったようだ。この邸宅に彼を連れ込んで過ごしたことも何夜かあったようだから、何とも無軌道な話だった。
 どうやら、男友だちは、好美さんがビバリーヒルズ住人の富豪だと知って、手っ取り早く大金を得ようと、彼女の子供の誘拐を思い立ったものらしい。
 彼女も愚かだが、その男友だちも、手のかかる赤ん坊を誘拐したことと、受け取りに難のある身代金を得ようと企てた時点で、彼女に輪をかけた大馬鹿者だというしかない。お金をくすねたメキシコ女といい、黒人の男友だちといい、余りにも頭がなさ過ぎて笑える話だ。
 仕事を始めた日の早々から耳にしたとんでもない話を除けば、同じ日の午後には買い物などに使う白いトヨタ車も私の元へ届けられて、まずは、何事もなくリブ・インの初日は過ぎていった。取り合えず、寝る場所と三度の食事、連絡先となる電話番号を確保できたことは僥倖で、その上、車が自由に使えるとなれば、今の私には、もう何も言うことはない。
 久方ぶりに、人並みに息がつけたような気持ちがして、私は、早速、文芸誌をやっている小池智子に電話をして、状況を話し、電話番号を知らせた。
 電話の彼女の声が弾んでいる気がして、私は、自分のことで喜んでくれている人がいるのが嬉しかった。
 
インディアン サマー(九)

杉田廣海


刑事が乗り込んできたり、また時には大パーティを催したりはしたが、結局、ゴタゴタしているようでいて面白味に欠けるビバリーヒルズでの仕事は退屈、と言うより手持ち無沙汰で、長くは続かなかった。あちこちで辞め癖のついた根気の無さが原因だが、体調の悪さを忘れるためにアルコールに手を出したことも理由の一つだ。
 別に初めて飲酒を始めたわけではなく、しばらく飲まなかったのをまた再開したというだけの話だとしても、字義通り、貯蔵室の酒に手を出した盗み酒で、正真正銘のキッチン・ドランカーだ。
 一方、警察沙汰になるほどの事件を起こしたのに、子供を人に任せっきりにしての好美さんの夜遊びは一向に止まる気配もなかった。したがって、夕食は要らないからと言って出掛ける日が多かったので、休業同然でやることがなくなり、うまい具合に誘惑のお膳立てが出来上がるという寸法だった。
 それと、沖縄出身の好美さんからすれば、たまには沖縄の料理やおかずが恋しかったり、簡単なお茶漬けなどで済ませたい日もあったのに、カネをかけた濃いメニューばかりじゃ食欲も減退するばかりだったのだろうか。
 いずれにしても、彼女が食べなければ仕事はなく、だからといって気楽かといえば、決してそうではなく、かえって気が重くなった。彼女と私は年齢差もあってか、よく話し合ってコミュニケーションも万全、というわけにもいかず、互いに遠慮もあって黙ってしまうことも多々あったとも思う。私の体調のことも彼女には負担だったかもしれない。
 これはあるとき好美さんが私に話してくれたのだが、彼女の沖縄の父親も、喧嘩で内臓破裂の大怪我をして、以来、別人のように元気がなくなったという。私は彼女に自分の内臓破裂の事件を説明していたから、父親と私の症状を重ねて、その面での遠慮も全くなかったとはいえないだろう。
 とにかく、私はキッチン・ドランカーだった。
 酔って心を痺れさせている間は痛みを忘れ、独り小説世界に沈潜出来るから酒量は増える。呑んで書くときの小説は筆が進み過ぎるほどで気分が良いのだが、後で読むと殆ど使い物にならなかった。しかし、書いているその刹那の陶酔と至福感は捨て難く、駄目だと知っていても繰り返してしまうのだ。

 一九九二年四月、めっきり気温も上がって、春の色を濃くしている辺りの陽気とは裏腹に、相変わらず私の体調はすぐれないまま一向に好転の兆もない。不安と倦怠感に悩まされる毎日で、何をするにも気力が湧かず、自分がどうしようもない怠け者になったような気になって一層落ち込むという無限ループだった。
 わずか一年足らずで仕事を辞めたときには、為すべき様々な手続きや書類作業も放りっ放しにしていて、ドライバーズ・ライセンスは数ヶ月前に期限切れになっていたし、申告しているグリーン・カードの取得も中断していた。何よりも、給料として毎月受け取っていたチェックさえ小机の引き出しに溜めたままで、換金さえしていない状態だったのだ。
 何もする気が起こらないというより、私は、何も出来ないボロボロの状態であり、廃人同様だった。そんな人間が、仕事を辞めて生きて行けるはずもない。何とか息を吸って生きていられるのは、文芸仲間の小池智子がサウス・セントラルに住む場所を見つけて援助してくれたからである。
 ビバリーヒルズを出て移り住んだ住処は、黒人地区のど真ん中といった趣のウッド・パネル造りの古い一軒家で、と言っても母屋の方ではなく、裏手のガレージの二階だった。
 キッチンとバスルーム、やや大きめのクローゼットと、それに、部屋の外には木製のテーブルと椅子を備えたベランダが設けてあって、一人暮らしの身には何の不満もない。建物は古く、お世辞にも綺麗な部屋とは言えないが、ビバリーヒルズの無味乾燥な部屋よりはよっぽど気が休まる気がした。部屋はいいとして、安全面での環境はとなると、ちょっと物騒かも知れない。
 年明けに引っ越したから、丁度、四ヶ月と少しになる。母屋には三十過ぎ位の日系人男性と、若い留学生の日本人女性が、それぞれ部屋を借りていた。
 それと母屋にはもう一人、ロンという白人で痩せ形の老人が住んでいて、てっきり、最初は彼が家主だと思っていたが、すぐに、新車ながら、前部のバンパーとグリルが大きく凹んだ黒のニッサンのトラックに乗って、イングル・ウッドから毎日のようにやって来ていた六十年配の小太りの男が彼の弟で、実際の家主だと知った。二人は歳も離れていて、顔も体つきもあまり似ていないので兄弟には見えなかったが、本人の口から聞いたのだから兄弟なのだろう。
 彼の名前はベリー。話し好きな気のいい親父で、入居以来、よく私をつかまえてはあれこれ喋りまくっていたので、日を置かずして彼が家主だと知り、そして、私とはすぐに、互いに気心が許せる間柄になった。
 彼の弁によると、兄と妹を出し抜いて、親の所有していた家屋を彼一人で引き継いだらしい。妹は、今でもそのことを恨んで思い出したように文句を言うのに、母屋に独りで住んでいる兄の方は、その件では、一言の文句も言ったことはないそうだ。
 尤も、近所の公立高校で長い間清掃の仕事に就いているという兄は、お喋りな弟とは対照的に、口が利けないのかと思うほど極端に無口だったから、察するところ、文句を言おうにも言えなかったのに違いない。似ていないのは顔や体つきだけではなく、性質まで正反対だった。 
 ロンは、私が借りている階下のガレージに自分の車を出し入れするので私とはしょっちゅう顔が合っても、彼の方から話しかけてくることは決してなかった。かといって、私や他の日本人を特に毛嫌いしている風でもなかったので、やっぱり、単純な無口なのだろう。
 ただ一点、意外だったのは、身なりなんかあまり構わない、どちらかと言えばむさ苦しい老人なのに、彼の車は、スポーツタイプの真っ赤なカマロだったことだ。毎朝、階下で大排気量のV型八気筒のエンジンが、ドコドコと腹に響くような排気音をたてるのは、多少、迷惑と言えば迷惑だったが、彼がその不釣り合いなスポーツ車に乗る姿はちょっとユニークで、嫌いではなかった。

 それから、ヨーコという、時折、所用で顔を見せるベリーの妻は沖縄出身の日本人女性で、小柄ながらよく動き回る働き者だった。
 早くに親を亡くした後、残された幼い妹や弟たちを、年長とはいえ、彼らとあまり年端も変わらない頃から働いて食わせたという苦労人で、最近、その弟の一人が、姉の彼女を頼って日本からやって来ていた。ベリーと同年配で、一人で母屋の大工仕事をやり始めた小柄な日本人が、その当人だった。
「この家のペイントをやったんだってね」
 丁度、取り壊した古材を運んで母屋の裏口から出てきた彼と鉢合わせて、挨拶を交わした後、彼が私に訊いた。嘗て、幼い姉が必死で守ろうとした弟も、今では、白髪交じりの初老の男に変わっていた。
「あ、はい」
 私は、彼に答えた。
 彼の言ったペイントとは、例によってベリーとの無駄話の中で、私が以前、数年間ハウス・ペイントの仕事をしていたと話したので、彼が無理に頼んできたのだ。むろん、健康上の理由で、今では仕事が出来る状態でないのはベリーもよく分かっているはずだが、急ぐことはないし、自分も一緒にやるからと言って簡単には引き下がらなかった。いくら言ってきても、出来ないものは出来ない。しかし、やる気のない私を最終的に決断させたわけは、引き受けてくれるなら、代わりにあの車をやると彼が言ったからだ。
 あの車とは、現在は閉めている彼所有のガス・スタンドとガレージが兼用の建物内に、四年間も放置されたままになっている八十四年型ニッサン・マキシマのワゴン車のことだった。
 以前、テナントとして入居していた日本人の若者が、どういう事情か、車を置いたまま帰国したらしいのだ。彼は運転があまり上手くなかったと見えて、左前のフェンダーその他の箇所に大小のダメージがあるが、走行距離は四万にも満たない低マイルの上、塗装やシートなどの状態も良好だったから、全体の程度は極上だった。八年ものの中古車でも、実質、四年しか乗っていないのだ。私が食指を動かしたのを、ベリーは素早く見抜いていたのだろう。
 ペイントなどの材料はベリーが持ち、且つ彼も仕事を手伝うことを条件に、私とベリーとで母屋とガレージ(私の住処)の建物のペイント仕事を開始し、内心では死に物狂いだったが、欲と二人連れで、何とか仕上げたのである。
 従って裏のガレージ横には、現在、晴れて私の愛車となったマキシマがでんと鎮座している。
「良く仕上がっているね・・・」
 彼は、家の外観を見回すように仰いで言った。
「カネと時間をかけたからですよ」
 私は、少しぶっきらぼうな調子で返した。
 しごく当たり前だが、ハウス・ペイントは予算をかけるか否かで品質は大きく異なるのだ。安くて下手な仕事だったら、永くは保たない。それよりも、べりーの奥さんの弟なら沖縄出身のはずなのに、LAでは耳にする機会も多い彼の地の方言がなく、もしかしたら、彼は内地で暮らして来たのかも知れない、と私は思った。
「私、新城。よろしく」
 男は人なつっこく破顔し、自己紹介した。
 会釈をして、私も同じように自己紹介した。
「しかし、恐ろしいところだね、ロサンゼルスってところは・・・」
「は?」
「ここでは、毎日のように銃声が聞こえてきてさァ、昨日の夜なんかはほんの近くで大きな鉄砲の音がしたんよ。夜ベッドで寝ていても、いつ弾が飛び込んで来るかと、気が気じゃないよね」
「あ、はい。最近は特に酷いようだから・・・」
 私は頷いて、彼に答えた。
 発砲事件なら、私も最近、ほんの目と鼻先の路上で発砲現場を目撃している。怒声がしたので振り向くと、古いキャデラックがタイヤを軋ませて急発進し、追うように道路に走り出た黒人の男がその車に向けて、続けざまに拳銃を数発、撃ち放ったのだ。 当たったのか当たらなかったのか、車はそのまま逃げ去った。撃った男は、口惜しそうに手を振り下ろして、見ていた私など眼中にないような感じで歩いていった。
 ドラッグに起因するギャングたちの抗争、それに、彼らを取り締まる側のポリス・ブルタリティーと呼ぶ過剰な暴力行為などのニュースが、メディアを騒がせない日はなかった。
 現に今もTVは、一年ちょっと前の三月三日の夜半に起きたロドニー・キング事件関連のニュースを連日、報道している。
 事件当時のキングは二十五歳、友人たちと一緒に自分の車でサン・バレーのフットヒル・ハイウエイを走行中、CHP(カリフォルニア・ハイウエイ・パトロール)のパトカーを追い抜いた。パトカーはすぐにキングの白いヒョンダイの後につけて、紅い灯火を回し、停車を命じた。
 気が動転したキングは、慌ててスピードを上げた。
 彼は友人たちとモルト・リッカーを呑んで飲酒運転だった上、一九八九年の十一月に、モントレー・パークの食料雑貨店で店主から二百ドルを脅し取った罪で仮釈放中の身だったからだ。捕まれば、即、刑務所に逆戻りとなる。
 しかし、追跡するパトカーは増え、キングは観念して、大きなアパートの建物がある近くでフリーウエイを下りた。彼は車を降りて、囲んだパトカーの強力なライトが照らす路面にうつ伏せになった。
 彼の車は、LAPDの二十一人、CHPが四人、そしてLA統一学校区から二人と、短時間に膨れあがった人数で囲まれたのだ。今世間を騒がせている事件は、これが起点で、殴る蹴るの、多勢のポリスたちによるキングの袋叩きが始まったのだ。
 通常なら、これで問題はなかった。ポリスやシェリフたちが被疑者に暴力を振るうのは日常茶飯事で、悪くすれば、射殺する場合だって珍しくない。
 これが大事件へと発展したわけは、現場が大きなアパートの側であり、建物のベランダからこの様子を目撃していた人たちが、思いの外、沢山いたからである。中にはビデオで撮影していた人もいて、最終的にはこれがTVのニュースで流され、全米を震撼させることとなったのだ。
 大勢の目撃者に加えて八十一秒間の証拠のビデオは決定的で、ポリス側は、今までの被害者のときのように、皆で都合の良い状況に捏造して一刀両断に切り捨てるわけにも行かず、結局、二十八歳から四十歳になる四人のオフィサーが起訴された。
 裁判を巡っての検察側と弁護側の攻防は激しく、メディアがそれらの詳細を賑わしていたのだが、いよいよ、この月末には陪審員の評決が出て、彼らオフィサーの有罪か無罪かが決まるはずだった。
「ロサンゼルスには、しばらくいるんですか?」
 私は、新城に訊いた。
「うん、まあ・・・。」
 彼は言った。
 答えたくないような曖昧さが滲んでいる。
「ベリーは、来るのかなァ?」
 私は、話題を変えるように独りごちた。プライベートに立ち入る気は更々ない。まして、相手が触れたくないのなら尚更だ。
 新城は、私の独り言を、初対面の挨拶は終了と受け取ったようで、仕事に戻っていった。

 車の中でラジオを聴いていると、日産の黒い小型トラックが入ってきて、いつも通りの定位置に停まり、ベリーが車から降りた。
「ヒロミ」
 彼は、車から出た私に手を挙げて見せた。
「上に行く?」
 ガレージの二階に突き出ているベランダを指して、私はベリーに訊いた。
 大体、無駄話の場所はそこと決まっていた。彼は同じ場所の同じ椅子に腰を下ろして、若いころ従軍したベトナム戦争の話や、沖縄の話、自分たち家族のことなどをまくし立てるように、そして長々と私に話すのである。殆ど聞き役だから、人によっては、つかまったが百年目のような辛さがあるかも知れない。
「いや、車に乗ってくれ」
 彼は、車のシートの裏側から青い色のうがい液を取り出して、口に含んで吐き捨て、私に言った。
 うがい薬は、人を助手席に乗せるときには絶対に欠かさない彼の儀式だった。
「どこへ行くん?」
「ガレージ」
「ああ・・・」
 ガレージとは、今は私の愛車となったマキシマが長い間埃を被って眠っていた場所である。昔は車の修理工場を兼ねたガス・スタンドだったのだが、今は閉店して周りを金網で囲っている。
 建物の中は案外広いし休む部屋もあって、特に定職を持たない暇人の彼が過ごすには恰好の棲家となっていた。実際、彼は、建物内の、一見何の変哲もない場所に隠し部屋を造っていて、そこを『ニンジャ・ルーム』と呼んで一人悦に入っているのだ。 どういうわけか、ニンジャとかハンチョウとかの、脈絡のない単発的な日本語を知っていたりする。
 子供じみたところもあるが、憎めない男である。
「ヒロミ、カズと会ったか?」
 私を乗せてニッサンのトラックを走らせ始めると、早速、ベリーが話の口火を切った。
「カズ?」
「ヨーコの弟だよ」
「ああ、カズと言うの? あんたが来る少し前に会ったよ」
「どうだった?」
「どうだったって、何が?」
「彼をどう思う?」
「・・・どうも思わんけど」
「あいつは、変わっているよ」
 ベリーは言った。
 口ぶりから、彼はカズさんをあまりよく思ってないようだが、ワイフの弟で、自分と同じ年配の男なら気が合わなくて普通だろう、と私は思った。カズさんが、沖縄でなく日本の内地で暮らしていたのなら、言葉の壁もあって、ベリーにとっては面白くも何もない存在のはずで、彼がよく言うはずもない。
 ベリーが二階のベランダを避けて、私をガレージに連れ出そうとしたのも、母屋で大工仕事をしているカズさんには聞かせたくないからだろうと推測した。
「毎日毎日、カズは一日中、サケを呑んで日本のビデオ・テープばかり観ていたんだよ」
 ベリーは続けて言った。
「彼は、いつアメリカに来たの?」
 てっきり、この二、三日の内に渡米したと思いこんでいたのだが、どうやら違っていたようだ。
「一ヶ月くらい前だな」
 例によって取り留めもないベリーのお喋りが本調子になりそうで、こうなったら、口を挟む余地もなくなる。
 ベリーの話では、日本からの旅行で数日間滞在するだけだと思っていたのに、一向に帰国する気配がないので洋子さんが訊いたら、カズさんは、しばらくの間やっかいになりたいと言ったという。
 同じ屋根の下で、いかに義弟とはいえ、自分の家族以外の男と一緒に暮らすわけにはいかないから、別棟の、ガレージ兼物置を片付けて、そこへ移ってもらったのはいいが、知り合ったビデオ店をやっている日本人から、無料で大量のビデオ・テープを借りてきて、もっぱら、ビデオ鑑賞の日々らしい。
「ビデオを観るのは構わんが、彼はいつも、ウィスキーのようなハード・リッカーを呑むんだ。この間なんか、あんなに小さい体で、まるまる一瓶のウィスキーを空けたんだからな。一体どうしたら、あれだけの量のウィスキーがあの体の中に入るんだよ。クレイジーだよ!」
「・・・」
「おれだって呑むけど、三分の一も瓶を空けたら、もう呑めんな」
 運転しながら、ベリーは首を振って苦笑した。
 ベリーも呑むのは知っているが、いつもビアだけで、それも度を超すようなことはないのでカズさんの酒量に驚いたとみえる。同病相憐れむというか、私も人のことは言えない状況だから黙るしかないが、カズさんという人間も深い心の闇のようなものを抱え込んでいるのかも知れないと、私は思った。
「あのままじゃ、絶対にいつかぶっ倒れるから、ヨーコと話して、呑ませないようにあの家の大工仕事をさせてんだよ」
「そうなの・・・」
 車は、金網で囲まれたベリーのガレージに着いた。
 彼は車を降り、私も降りた。
 ベリーは、太い鎖を巻き付けた南京錠を解いて入り口の引き戸を開けた後、また車に乗り込み、金網フェンスの中に入れて停めた。
 空っぽの工場内を通って突き当たりまで行くと 天井がやや低くなった場所があって、側の壁に二本のロープが下がっている。ベリーは、その内の一本のロープを引っぱった。すると、天井の一部の板がスライドして 天井板とは材料の異なる合板が現れる。彼は、今度は別のロープを引っ張り、ゆっくり戻すと、天井が口を開いて簡易階段が下りてきた。
 この階段の上の部屋が彼の言う『ニンジャ・ルーム』で、自慢は、部屋に上がった後、簡易階段を上の部屋から元通りに収納出来る工夫が施されていることだった。
「階段を納めたら、誰も天井裏の部屋に気付かない」
 というのが売りで、『ニンジャ・ルーム』たる所以なのだ。
「もう、そろそろ、サクラメントから返事が来るころだろう?」
 二人が部屋に上がった後、簡易階段を部屋のロープを引っ張って取り込みながら、ベリーが言った。
 彼がそう言ったわけは、私が、棚の上に無造作に置かれた三十八口径リボルバーを手にしたのを見たからだ。弾は充填されてない。シリンダーは空だった。
 一番最初にこの部屋に案内されたときに、彼は、話題に関連してこの拳銃を見せてくれたのだが、まるで使い込まれた工具か何かのように、磨り減った地金の色合いが印象的だった。
 ベリーはベトナム戦争に従軍して戦ってきたから、彼から見れば、銃器は工具類と同じく手慣れた感覚なのだろうか。
 銃器店に陳列してある銃はむろんのこと、映画やTVのシーンで目にする銃の殆どは新品同様のものばかりだから、意外に思えたものだ。
「いや、まだ来てない」
 私は、彼に答えた。
「やっぱり、オレが忠告したとおり、書き方がわるかったんじゃないか」
「・・・」
「あんな風に書けば、誰だって頭に来るよ」
「頭に来るのはこっちで、あっちは謝る方の立場だよ、ベリー」
 私は、彼に言い返した。
「でも、ミスをしたのはサクラメントじゃなくてLAサイドなんだから、やっぱり、サクラメントを非難するのはポイントがずれてるとオレは思うけどな」
「しかし、サクラメントは、書類を管理するトップの役所だろう? 文句を言うのは当たり前じゃないか」
 この、サクラメント云々についての事の次第はこうだ。
 段々と治安も悪くなるし、護身用に銃を買うかという話しになって、ひと月ばかり前に、ベリーと一緒にオレンジ・カゥンティの銃器店に出向いて、イタリア製のベレッタ92FSというセミ・オートマチックの拳銃を購入したのだが、身元チェック期間を経て品物を受け取りに行くと、店から引き渡しを拒否されたのだ。
 まるでひと昔前の、日本の年末大売り出しを彷彿させるほど大勢の客でごった返す店内で、やっと私の番がまわってきたかと思うと、応対した係員はにべもなく、サクラメントからの情報で私に前科があるから渡せないと言う。前科はないと言い張っても、文句はサクラメントに言えと、けんもほろろだった。
 私は言われたように、サクラメントに文句の手紙を書いた。
 手紙を投函する前に、ことのついでにと毎日会うベリーに文章を見せたところ、これでは駄目だというのだ。間違いの箇所を訊くと、サクラメントを非難しているから、係官がこの手紙を見たら怒るという。罵倒じみた非難と早急に誤りを訂正して銃砲店に通達しろと記した結文が、命令調でよくないらしい。
 怒らせるために書いたといえば語弊があるが、やってもいないのに、勝手に前科者の烙印を押された者の怒りを先方に伝えたいから、手紙を書いたのだ。
 訂正するつもりはなかった。
 その手紙の返事は、まだ、サクラメントから届いてはいなかった。
「誰かの書類と混ざったのかもな。何といっても犯罪が多いから、役所も手が足りなくて今度のようなミスが起こるんだよ」
 ベリーが言った。
 しかし、手が足りないからって、ミスをするにもほどがあるってものだ。
「知ってるか、ヒロミ」
「何が?」
「これほどLAの黒人社会の治安が悪くなったのは、あるケースが酷かったからなんだ」
 眉を顰めるように、ベリーが言った。
「ドラッグと、それに、ロドニー・キングの事件だろう?」
「ドラッグは別にして、おまえが今言ったように、黒人たちの視線を集めているのがロドニー・キングとラターシャ・ハーリンスのふたつのケースだよな」
「ああ・・・」
 ラターシャ・ハーリンスは十五歳の黒人少女で、サウス・セントラル地区でリッカー・マーケットを経営していたスー・ジャー・ドゥという韓国人女性と、万引きしたしないで争いになって、スーに銃で撃たれて殺された事件だ。
 この顛末の一部始終は、店内のセキュリティ・カメラで録画されていた。
去年の十一月に、スーには五年の執行猶予の判決が出ている。
 この判決に黒人社会は反発し、火炎瓶を投げ込んだり、閉めた店を再開させないようにコミュニティのリーダーがデモを仕掛けたりした。
「このラターシャの判決と同じころ、黒人社会で、もうひとつの判決が口伝えで急速に広がったんだ」
「もうひとつの判決?」
 事件は山ほどあるだろうし、見当もつかない。
「去年の六月末にグレンデールで、コッカー・スパニエルだったか、自分の飼っている犬を虐待した二十六歳の男がいたんだ」
「うん・・・」
「コッカー・スパニエルって、ディズニーの映画に出てくる小型で、耳が垂れて尻尾の短い、あのやつな」
「うん、分かる・・・」
「このブレンデン・シーって男は、犬を蹴って、肋骨とか骨盤に損傷を負わせたんだけど、最悪の場合、三年間、刑務所へ入る可能性があったんだ」
「犬を虐めて、三年のブタ箱行きか」
「黒人の十五歳の少女を撃ち殺して、五年の執行猶予になったスー・ジャー・ドゥの判決が下った五日後に、このブレンデンって男の三十日間の収監が決まったんだよ」
「うーむ・・・」
 ちょっと違うかも知れないが、私は、元禄期の徳川幕府が出した、所謂、生類憐れみの令の『お犬さま』が脳裏を過ぎった。犬の扱い方によっては極刑を免れなかったから、本末転倒の悪法と言われたりした。
「人間の娘を銃で撃ち殺しても刑務所へは入らずに、犬を蹴って負傷させただけで、一ヶ月も刑務所暮らしか?」
 ベリーは、私を詰問するような調子で言う。
「・・・」
 私は、肩を上げて見せた。
「とまあ、こんな風に黒人たちは憤って、この判決の噂は彼らのコミュニティをすごい速さで駆け巡ったんだ。そりゃそうだよな、このふたつの判決は、黒人の命に価値は無いって言ってるのと違わないんだからな。犬より劣るってんだから」
「・・・知らなかったな、そんなことがあったなんて」
 険悪な世相の裏には、そうなってゆく要因があるってことか。
「でも、ラターシヤの事件もブレンデンって男の事件も、正当な裁判での判決だろう?」
 私は、ベリーに言った。
 きちんとした法律に照らして皆で審議し、公平な答えを引き出した上での判決なら、それはそれで、文句をつける筋合いじゃないだろうとも思う。
 ラターシャの事件も、背景と、両者のとった実際の行動を、証拠の録画や証言によって詳細に吟味したが故に執行猶予となったに違いない。そうでなければ、不正で不公平な裁判となってしまう。
「アメリカの裁判もポリスの捜査のやり方も、決して公平じゃないよ」
 笑って、ベリーが言う。
「ヒロミ、おまえもこれからポリスと裁判で争うんだろう? ポリスも裁判も頭から信じ込まない方がいいと思うよ」
「ああ、そうだね」
 自分の身に降りかかるとなれば切実だ。物分かりの良いことばかり言っていても、始まらない。ベリーの言葉は忠告として、胸に納めておくこととしよう。
 私の裁判の相手はシェリフだが、知人の一人は、彼らはストリート・ギャングより質が悪いと言っている。
「早くサクラメントからいい返事がくると良いな」
 ベリーが言った。
 ビバリーヒルズにいたときは、殆ど閉じこもり状態だったが、険悪な世相を肌で感じる機会もなく気付かなかったことが、ここではピリピリと体に伝わる。
 私は、銃器を購入しようと大勢の客でごった返していた銃砲店の様子を思い出し、そういえば、彼らの殆ど全員が白人だったことに改めて気付いた。
 彼ら白人は、黒人の怒りを知っていたのだ。

 以前に、私は趣味が高じて拳銃の弾を手作りしていたことがあって、そのころは、火薬などの材料を購入するために割と頻繁に銃砲店を訪れていたので知っているのだが、通常、銃器やナイフを売る店があれほど混雑することはあり得なかった。それに、女性客の数も限られていたものだ。 
 いるとすれば、時折、ボーイフレンドにくっついてきた若い女を見かけるくらいで、年配の女性客の姿など、ついぞ目にしたことはない。にもかかわらず、店内は大勢の女性客を含む白人客でごった返し、さながら、セールの品物を目指して来店した買い物客を見るような様相だったのだ。
 銃砲店があれほどの白人客で溢れ返っていたのは、彼らが黒人たちの怒りを感じ取っていたからに違いなかった。それも、命の危険を感じるほどの怒りだ。そうでなければ、皆が一度に、殺傷能力をもつ銃器を手に入れようとするはずもない。
 いわば、日ごろは無縁の、生死に拘わる防御本能が働いたのだと思う。
「ガバメントとの争いはタフだからな・・・」
 ベリーが、インスタント・コーヒーの用意をしながら言った。
「うん」
 私は生返事をした後で、はて、どちらの事件を指しているのだろうかと思った。犯罪歴を烙印されたサクラメントの件か、それとも、これからの私の裁判のことを言っているか。どちらもすぐ前に話した事柄だし、両方とも、相手がガバメントがらみだから判断に迷った。
 それにしても、ベリーがいうように、立場の弱い個人が政府を相手に喧嘩をするのは骨が折れる仕事だ。
 もしも、ロドニーキングの事件でポリス側が無罪となれば、それでなくとも不穏な辺りの空気が一段と険悪になってしまうのは、疑う余地もなかった。
 ガバメント相手の闘争がタフで骨が折れるという意味は、勝てない、とほとんど同義なのに他ならなかった。
 泣く子と地頭には勝たれぬ、だ。
「今は、ここら辺はもの凄く治安が悪いけど、これからどうなるんだろうね?」
 私は、独り言のような調子でベリーに言った。
 ここの、今は使われていないベリー所有のガス・スタンドはノルマンディと50番付近に位置し、あまり安全な場所とは言い難い。
 スーパーマーケットなどでも、罵声の飛び交う場に出くわしたりと、人のいさかいも以前よりも頻繁に見かけるようになったし、人心がひどく荒れているのは疑いようもなかった。何より、戦場でもあるまいし、昼夜を問わず銃声さえ耳にするのだから異常な事態だ。
「ポリスとの関係の悪さは、ワッツ暴動のときとよく似ているかな」
 ベリーが答えて言った。
「・・・それって、暴動が起こるかも、ってこと?」
「そういう訳じゃないけど、黒人たちの不満が大きく脹らんでいることが、ワッツと同じ状況だからな」
「・・・」
 何だそんなことかと、私は少しがっかりした。
 暴動ならともかく、黒人社会の不満なら、慢性的なアメリカ病として、誰一人知らない者はいないくらいだ。
 ベリーにしてはつまらんことを言うと、少し、気分がしらける。
「ワッツの暴動、知ってるか? ヒロミ」
 彼は、追い打ちをかけるように、質問にもならないことを訊いた。
「知ってるよ」
 私は答えた。
 一九六五年の夏に、LA近郊のワッツで起こった黒人暴動だ。これもアメリカ病と同じで、誰もが知っている。
「だったら、どのようにして、そのワッツの暴動が始まったか知ってるか?」
「ん、どのように? 知らないよ」
 私が知っているのは、いわば年代的な歴史としての事件で、詳しいことを知っているわけでは勿論ない。
「ワッツ暴動のきっかけとなった出来事が、ちょうど、この度のロドニー・キングの事件と似通ってるんだ」
「え? 」
 ベリーは、得意げな顔つきをしている。
 内心、私は面白そうだと思った。
 彼は話すときに、相手が驚きそうなら、電光石火の速さでその気持ちを読み取る能力を持っている。そんなときの、ちょっと気取った表情だ。
「ロドニー・キングもポリスに車を停止させられてからが、事件の始まりだっただろう? ワッツのときも同じなんだ」
「・・・」
「キングも若いけど、ワッツのときも二十歳そこそこの若者の車が、モーター・サイクルのオフィサーによって停止させられたんだよ」
「それで?」
 私はベリーに話の先を促した。
「白人のオフィサーが複数の黒人青年の乗った車を止めた。その理由がなんと、飲酒運転の容疑だ」
「何から何まで、同じ状況か・・・」
「黒人青年が取り調べを受けている間に、助手席に乗っていた兄弟の男は車を降りて、家が近所だったので、そのまま歩いて帰ったんだな」
「・・・」
「で、家に帰った兄弟の男が何をしたかというと、なんと、家にいた母親と一緒に、車を止められた現場に戻ってきたんだ」
「うん・・・」
 面白くなってきたじゃないかと、私は膝を乗り出したい気持ちだった。
「この母親がまたけたたましい女で、現場に着くや否や、オフィサーに向かって大声でわめき散らし始めたんだ」
 ベリーの声にも力が入り始め、表情もいい。
「時間は、まだ暮れなずむ夏のくそ暑い午後七時ごろだ。この母親、辺り構わずわめき散らすもんだから、一体何ごとかと、道行く人や外で涼んでいる近所の人が、段々、集まりだしたんだよ」
「・・・」
「一方、飲酒運転の容疑者の男だが、鼻をつまんだり、片足立ちをしたり、はたまた直線上を歩いたりといった、いわゆる、酔っていないことを証明する一連のソブライアティ・テストをしくじったんだ」
「飲酒運転、確定か・・・」
「テストが駄目な時点で逮捕されるから、駆けつけた母親がそれを見て逆上したってわけだ」
「ふーむ・・・で?」
「集まった野次馬連中も、母親の剣幕に煽られて叫んだり、次第に声を荒げるもんだから現場は険呑な状況になるよな。二十人から三十人だった人数は、すぐに百五十から二百五十と、瞬く間にその数を増やしていったんだ」
「うん・・・」
「オフィサーは無線連絡で、男の車の牽引を要請すると同時に、身の危険を感じて、仲間のポリスに応援に来てくれるよう頼んだのだけど」
「・・・」
「それからが大変だ。仲間はすぐに応援に駆けつけたが、騒ぎは収まるどころか、大きくなる一方だった」
「ポリスが増えれば、その分、野次馬たちも燃えるってわけか」
 何となく分かる気がして、私はうなずいた。
「いや、野次馬って生ぬるい段階はとっくに越えて、最後は何百人って人数に脹らんでまだまだ増える一方だったから、群衆というか、もはや暴徒と言った方が当たってるな」
「暴徒?」
「ああ。何故なら、結局、兄弟とその母親の家族三人が逮捕されてから、群衆はポリスに向けてものを投げ始めたからね」
「何、じゃ、そのけたたましい母親も、息子と一緒に逮捕されたん?」
「ああ。ポリスの話じゃ、男に手錠をかけた後で彼の背中に飛びついたらしい。兄弟の男も、殴りかかってきたということになってるようだな」
「しかし、激しいママだね。息子可愛さからかな。罪を犯したなら捕まっても文句は言えないだろうに・・・」
「それが、彼女は、息子は酒を飲んでいないと言い張ったようなんだけど、まあ、言って分かるような女じゃないよな」
 ベリーは、笑って言った。
「それが、ワッツ暴動の始まりか・・・」
 私は頷いた。
「いや、そうなんだけど、ヒロミ、オレがワッツのときと状況が同じだと言ったのは、暴動のきっかけとなった飲酒運転の黒人と、彼らを捕まえたオフィサーの話だけじゃないんだ」
「・・・じゃ何?」
「今世間で騒がれているのは、さっき話したロドニーキングの事件とか、ラターシャの事件とか、ブレンデンという男の動物虐待の刑期報道やなんか、黒人から見れば、人種差別による我慢ならない沢山の事件が背後にあるせいだろう?」
「積もり積もった積年の恨み、かな・・・」
「そうだろう? ワッツの暴動のときもそうだったんだ」
「・・・」
「つまり、夏のワッツ暴動以前に、それこそ現在とは問題にならない量の、ポリスと黒人との摩擦が脹らんでいたんだ。当時、大きな話題になったのが、同じ年の五月に起きた事件だな」
 ベリーはテーブルに二つのコーヒーを置き、一つを、私の方へ滑らせるように押しやった。
「ありがとう」
 私は、手にしていた彼の38口径リボルバーを置いて、代わりにコーヒーカップを取り上げた。そして、
「どんな事件だったん?」
と、彼に話の先を促した。
「これも、白人のポリスが黒人の運転する車を止めて起こった事件でね。男は、妊娠中の妻と病院へ急ぐ途中で止められて、撃ち殺された」
「え?」
 私は聞き違えたかと思って、訊き返した。
「撃ち殺した? どうして?」
「白人オフィサーが言うには、車が急に大きく揺れたってことだが」
「車が揺れたから、どうだっていうの?」
「知らんけど、事故って言い訳か? とにかく、オフィサーは男の車の窓に拳銃を差し込み、頭にバーンと一発、男は即死だった。それも、妊娠しているワイフのすぐ目の前でね」
 ベリーは私が置いたテーブルのリボルバーを手に取り、銃口をガラス窓の方へ向けて、引き金を引いた。
 カチッと、ハンマー音を弾かせた後、彼はリボルバーをテーブルに戻した。
「ひどい話だなあ・・・」
 にわかには信じられないような話だった。
「実際には、車は、全く揺れも動きもしなかったようだけどな・・・」
「・・・だろうね」
 もし、事実ならば、至近距離から頭を狙って撃つ、それこそ銃殺刑スタイルの殺人ではないか。冷酷すぎる。
 仮にも民主主義を標榜する先進諸国で、警察官が非武装の国民を交通の尋問で撃ち殺す国なんて、探そうとしても、そう簡単には見つからないだろう。
 車が揺れたとか動いたとか、そんな些末な口実はともかく、ゴキブリか何かをひねり潰すように車内の人間を撃ち殺すなんて、とても正常な神経だとは思えない。
 これがもし、黒人だからという人種偏見的な意識がほんの少しでも潜在していたとしたら、当然、指弾されるべきで、彼の所属する組織の根本思想が問われるだろう。
 よく根深い問題から生じた事件を氷山の一角と称したりするが、その伝でいくと、そしてこの事件を人種差別がらみに見立てれば、その重大性からして、とてつもなく巨大な諸々の人種偏見と差別意識があることが知れる。
「で、そのポリスはどうなったの?」
「責任は問われなかった・・・」
「・・・」
 この国の警察組織は狂ってる、と私は思った。
 同時に、その欺瞞に満ち溢れた狂った組織とこれから闘わなければならない自分に、暗澹たる思いがした。
「状況からして正当防衛にも当たらない。明らかな殺人なのに、責任なし?」
 私はため息を吐いて、言った。
「管轄の弁護代理人が、起訴を拒否したんだ」
「・・・」
「そのせいか、この人、後にものすごく出世したようだがな」
 ベリーは乾いた笑い声をたて、そして、
「反対に、将来ある黒人が無実の罪で前科が付いて、人生が駄目になった例なら数え切れないな」
と、言った。
「ベリー・・・」
 私はそう問いかけて、止めた。
 コーケイジェンかどうかは知らないが、彼は一応、ヨーロッパ系の白人だ。それなのに、言葉の端々に何故か、『お上』を毛嫌いしている感じが以前からしていて、そこら辺りの理由を訊いてみたいと思ったのだ。
「裁判所に行ったことある?」
 代わりに、私は、特に考えてもいなかったことを訊いた。
 傍聴席か被告席か、はたまた陪審員席かを特定しなければ、プライベートへの問題はない。
「オレはないけど、息子がやって、今は北の方の刑務所に入ってる」
と、ベリーは言った。
 

 今度の日曜日に、そこの刑務所に会いに行く予定なんだと、ベリーは続けた。屈託なく、他人事のような話し方が、ちょっと意外な感じだった。
 そこがまた彼らしいところかも知れないが、収監されている息子に会いに行くのに、行楽地がどこかにでも遊びに行くかのように、嬉々とした表情なのだ。

 結局、ベリーには、彼の息子がどのような罪を犯したのかは訊かなかった。
 私にとって特別に興味を引く事柄でもなかったし、今、無理に聞き出さなくても、また次の機会があって、話したくなれば話すだろうし、彼がその気にならなければ、それはそれで、別に知る必要もないことだった。
 ただ、どうせドラッグか何かの罪でしょっ引かれたのだろうとの見当はついた。
 今日日のことだ、若い男の刑務所暮らしとなれば、売ったか買ったか、どのみちドラッグ絡みと相場は決まっている。
 この手の事件があまりにも多くメディアに氾濫しているので、ベリーの息子がワルの友だちとつるんでドラッグに手を出したとしても、それほどの驚きはない。
 しかし、ベリーがどこかしらポリスを毛嫌いしたり煙たがる所以は、案外、息子の事件やなんかも影を落としているのかも分からない。
(それにしても・・・)
 と私は、少しばかり突飛な想像を巡らしそうになっていた自分に、苦笑するしかなかった。というのは、もしかしたら、ベリーは黒人?かなと考えたのだ。
 まさかと思いつつも、彼の言葉の端々に政府機関やポリスを毛嫌いする表現が多々あるものだから、つい、そういう方向へ考えが飛んだのかも知れない。
 以前に何かの本で、一概にアメリカの黒人と言っても千差万別であり、黒檀のように真っ黒な人もいれば、白い肌と金髪の容姿で殆ど白人にしか見えない人もいると読んだ記憶がある。
 白人にしか見えない人を、普通、黒人とは言わないだろうと、日本人の私には思えるのだが、たとえば国勢調査やなんかの人口統計で人種別に分類する際は、一滴でも黒人の血が入っていれば、すべて黒人と見なしてきた歴史があるらしい。
 だから、何十分の一の黒人なら、当然、皮膚の白い白人のような黒人もいるという理屈で、もしかしたらベリーも?となったのだ。
 彼の遠い祖先の一人が黒人と混血して、人種的に、厳密には黒人に属するとしても、別にあり得ないことでもないだろう。
 かといって、気を抜いて、ベリーに、あんたの祖先に黒人の血は入っていない?とは、まさか訊けない。この国では、いや、この国に限ったことではないが、人種問題は微妙で、相手を怒らせたり傷つけたりする怖れがあるからだ。
 それに実際の話、時間と金をかけて、情熱と執念で家系を調べ上げる覚悟があるならともかく、アメリカで、普通の人が、自分の祖先を何代も遡ってその血脈を正確に把握するというのは、それほど簡単ではないだろう。
 となれば、殆どの場合、仮に何十分の一かの一滴の黒人の血が自分の血管に流れていたとしても、まったく気づかないことになる。
 こうして考えると、日頃、ひどく黒人を憎んでいる人種差別主義者が、知らないだけで、実は自分の体の中にも差別相手と同じ血が流れているという、何ともしまらない話になる可能性だってあるのではないか。
 反対に、親から子へ、先祖の一人に黒人が居たと教え継がれてきたとしたら、黒人に対する差別意識や偏見は育ちようもないはずだ。何故なら、譜系の中のたった一人の黒人の血が無ければ、自分の存在も無いのだから。
 ベリーが、もし、親から子へ黒人の血が流れていると教えられていたとしたら、黒人を養護しこそすれ、差別する立場にはならないだろう。
 このような理由から、私は、ベリーが黒人よりの姿勢を人に感じさせるのではないかと考えたのだが、彼の息子が収監されているとなれば、そのことが主な原因なのかも知れないと思い直したのだ。

 息子に会いに行くとベリーが話していた当該の日曜日、北加の方へ出かけていないはずの彼が、どうしたわけか、昼を少し過ぎた頃に顔を出した。
「ヒロミいるか?」
 二階にいる私に、下から声をかけたのだが、心なしか緊張している様子だった。
「どうしたん、サンフランシスコの方へ行くんじゃなかった?」
「それが、行けなくなったんだ」
「・・・どうして?」
「昨日、カズが死んだから」
「えっ?」
「カズだよ。日本から来ていたヨーコの弟の」
「ああ・・・」
 頷きはしたが、事情がよく飲み込めなかった。その人なら、母屋で大工仕事をしていて、言葉を交わしたばかりだ。
 ベリーの話では、家にいると暇にまかせて酒ばかり呑んでいるので、呑ませないように大工仕事をさせているとの弁だった。
 その彼がどうして死ぬのだ、交通事故にでも事故に遭ったのか?というのが咄嗟の判断だったが、しかし、彼は車も免許も持っているふうではなかった。 
 結局、ガレージへ行こうということになって、いつものようにベリーの隠れ家というか、彼の所有する今は使われていないガソリン・スタンドで話をすることになった。
 ベリーの話によると、カズさんは友人三人と食事に行った先のレストランで亡くなったのだという。一緒にいた友人の話では、皆でテーブルに着いて注文した食事が運ばれてくるのを待つ間の出来事だったらしい。椅子に腰かけていたカズさんは、椅子と一緒に後ろに倒れて、そのまま動かなくなったようだ。
 何もしないのに自分で後ろへ倒れたとはどういうことだろうかと、私は思った。「気の毒なことをしたね・・・」
 私はベリーに言ったが、正直なところ、実はホッとした部分もあった。
 何故かというと、彼は五十代だったのかも知れないが、見ようによっては六十の坂はとうに越えているようにも思えた。独り身のようだったから、アメリカの姉を頼ってやってきたのだろうが、もし、同じように老いている姉が亡くなれば、どこで暮らすのだろうかと気になったのだ。
 ベリーはカズさんを煙たがっているようだし、彼の連れ合いの姉がいなくなれば、今の場所に住み続けるわけにもいかないだろうから、もしもそうなったら、早速、居場所がなくなる。
 経済的に、余裕があり過ぎて困る、というほどでも決してなかったし、老齢に加えて言葉の問題もある。彼の年齢から始めるアメリカでの一人暮らしに、人の心配をしている場合でないのは十分承知しているが、明日は我が身、心のどこかに、このことが引っかかっていたのだ。
 椅子と一緒に倒れて、昏倒したまま苦しまずに逝ったのなら、それはそれで、それほどわるいことでもないと思ったのが、私の正直な心境だった。
「知ってるか、ヒロミ」
 ベリーが言った。
「何を?」
 私は、問い返した。
「カズには、何十年も会っていない息子がいたんだ」
「・・・・」
「ヨーコが言ってた」
「そう・・・」
「いま日本に住んでいて、カズが彼の住所を書いたものを持っていたから、ヨーコが、カズが死んだことを彼の息子に知らせるって言ってた」
「そう・・・」
 何十年も面識のない息子なのに、彼の現住所を記したメモを持っていたというのが、少し、切ない気がした。会いたくても何かの事情で会えないだけで、どこかでいつも息子を見守っていたのだろう。そうでなければ、彼の現在住所など知っているはずもない。カズさんは、面とは向かい合わないだけで、継続して何十年も息子の近くにいたことになる。
「彼の息子は、来るかな?」
 私はベリーに訊いた。
「さあ、何十年も会っていないんだ。来ないだろう」
「そうか・・・」
 事情は分からないが、長年、音信不通だったという積年の恨みつらみを乗り越えるのは、決して容易くはないに違いない。そして、多分、アメリカに来るということは、遺骨を引き取ることも意味するかも知れない。カズさんの息子には、一つや二つではない困難が立ちはだかっているように思えた。
 しかし、カズさんの息子や他の家族との関係はともかく、当地での友人関係は上手くいっていたようだ。ベリーの話しでは、日本から来てまだたったのひと月ほどだというのに、ビデオ店のオーナーと知古になって、観たいビデオは無料で借りてきて鑑賞しているというから、人付き合いの苦手な私のような人間にとっては、神業としか思えない。
「ヒロミ、知ってるか」
「何」
「信じられるか?カズはいつも、財布の中に五、六百ドルくらいのドルを入れていたのに、遺品の財布は空っぽだったんだ」
「・・・そう」
「誰に訊いても知らないの一点張りだけど、救急車か病院かポリス、この中の誰かが盗らなくて、一体、どうして財布が空っぽになるんだ?」
 ベリーは、まるで、自分の財布のカネがスリ盗られたように口惜しがった。
「はは・・・」
 私が苦笑すると、ベリーは、
「本当なんだ!」
 と、むきになった。
「分かってるよ」
 私は、彼をなだめた。
 正確な金額は不明だとしても、現金払いが主流の日本から来てまだ日も浅い人物が、数名の友人とレストランに食事に行くのに、空っぽの財布を持っていくとはとても考えられない。
 それにカズさんは人付き合いに大事にし、そして長けているように思えるので、友人づきあいで出掛けるときのあまり軽い財布は、彼の人物像と合致しないのだ。
「財布のことは、そうだろうと思うよ」
 私は笑って、ベリーに頷いてみせた。
「イヤー、人は盗むんだよ。ベトナムにいたときだって、ロッカーなんて簡単に開けられるもんだから、誰もがカネの保管場所に困ったもんだよ」
 例によって、ベリーのベトナム話が始まった。
「で、最終的なカネの保管場所はどこだと思う?」
「・・・さあ」
「編み上げの軍靴の中だよ」
「え、靴の中にカネを入れるの?」
「ああ、大きな紙幣なら結構、大金も入る」
「ヒロミ、人間って、つくづく酷いもんだと思うよ」
「どうして?」
「前線で、ベトコンに撃たれて、近くにいた友軍の誰かが死ぬとするだろう?で、傍にいた奴が何をするかというと、軍靴の紐をほどいて、カネがあるかどうか調べるんだ。それも、人目があってもあまり気にせずに、半ば、大っぴらにやるんだから嫌になるよ」
「へえ、凄いね・・・」
 私は、少々、ベリーの話に驚いていた。
 戦争の極限状態は人間を変えるとよく聞くが、凄まじいではないか。
「だから、屍体は靴の脱げたやつばっかりだよ」
 ベリーは、小さな声をたてて笑った。
 多感ゆえに、若い頃の思い出は印象深くて忘れられないことも多くあると思うが、命懸けの戦争に参加していたとなれば尚更だ。私は、事あるごとにベリーがベトナム戦争の話を持ち出す癖もむべなるかなと納得していた。遭遇する出来事の多くが本人にとって強烈過ぎるものばかりなら、余程の覚悟がない限り、下手をすれば気だっておかしくなるかも知れない。兵士の間にドラッグが蔓延しているのも半ば公然の事実だったのだから、中には、平気で死体から紙幣を盗むほど神経が麻痺している輩だっていただろう。
 アメリカのベトナム戦争はメディアに叩かれ、世間からは白い目で見られながらも、退くに退けない泥沼状態だったのだから、兵士の士気が上がらないのは理の当然なのだ。いつ重傷を負い、死ぬかも分からない環境に身を置いて国家国民のために必死で戦っているのに、肝心の自国民からそれを非難されるとなると、とてもじゃないがやってられない。
 これもべりーのベトナム話の一つだが、彼が除隊になって帰ってきたとき、見ず知らずの全くの他人から、普通の人を撃ち殺してどんな気持ちだったかと訊かれたことがあったそうだ。
 自らを善良だと信じる一般のアメリカ国民は、戦争とは従来、制服を着た兵士同士が戦うものだとの固定観念があって、ゲリラを相手にする戦争の実態を知らないからそういうことを言うのだ。
 ベリーはそれにどう答えたかは言わなかったし、こちらも訊かなかったからそのときの事情は定かでないが、お喋りなくせにシリアスな議論となると途端に口数の減る彼のことだ、黙って引き下がったのではなかろうか。
戦争と無縁の平和な場所から眺めると信じられないような凄まじい光景も、その中に入って同じ極限状態にながく身を置けば、以前とはすっかり世界感が変わることだってあるはずだ。人を指さしての非難は、実のところ、的を射ていないことも多い。


 屋根裏の、ベリーの隠れ家から帰ってみると手紙が届いていた。
 サクラメントに出していた覚えのない犯罪歴に対するクレームの返書だった。ベリーに文章を見せたとき、これを読んだら役人が腹を立てるだろうから出すのは止めろと忠告されたあの手紙への返事だ。
 届いた文書の内容は、私本人と証明するための指紋を採って返送しろという簡潔なもので、他の事柄への言及はなかった。つまり、私に罪人の濡れ衣を着せた謝罪もないが、同時に、腹立ち紛れに、無能役人が云々とか、早急に記録を破棄して銃砲店へ知らせろとかを書き綴った咎め立てに対する反応の文言も見当たらなかったということだ。
 ま、短い文章の方が、返って先方の怒りを秘めているとも言えるが。
(指紋か・・・)
 照合するということは、既に誰かの指紋が書類に押してあるということで、私は、自分の名前と共に、黒々と押しつけられた手形の模様が目に浮かんだ。
 しかし、身に覚えもないのに記録が残るなどと、どうして、そんな出鱈目がまかり通るのか。考えられるのは同姓同名の間違いだが、ここはアメリカだ。白人や黒人ならばともかく、それほど数も多くない日本人名での同姓同名など、まず、有り得ないだろう。無理すぎる。
 では別物の私の記録が紛れ込んだのかとも思ったが、それも不可能だ。何故なら、記録には、名前と共に、本文となる詳細な記述が長々と書かれているはずだからだ。 紛れ込んだとしても、別の書類では意味を成さない。
 頭をひねって考えつめても、一体、どうしてこのようなことが起こり得るのか、なかなか納得できる結論には至らなかった。堂々巡りの末に、結局、人為的なミスなのだからと、注意力の散漫な担当役人の資質の問題に戻ってしまう。
(日本なら、こんな間違いは絶対に起こらない)
 治まらない気持ちで私はそう思ったが、日本ではアメリカほど多種多様な民族が住んでいるわけではなく言葉の障壁もないので、一概に断じられないのも分かっている。 以心伝心とか腹芸とか、あるいは場の空気を読むとか、言葉にするより黙する方が効果的なときがあるほど高度な意思の疎通も可能で、言葉の通じない人同士がごまんといるアメリカとは全く度合いが違う。
(言葉か・・・)
 私は、言葉の通じない被疑者が、黙って取調室に座っている姿を思い浮かべた。
 場所はローカルなポリス・ステーションで、むろん、通訳などいるはずもなく、座っているのは日本人だ。

「名前は?」
 ポリスが訊く。
「・・・」
 日本人は答えない。 
「お前は、英語が分からないのか?」
 ポリスが、また訊く。
「・・・」
 どういう訳か、日本人は黙ったまま、微かに頷く。
「分かるのか分からないのか、どっちだ!」
「・・・」
 日本人は、また黙り込む。

 思い浮かべた取調室の様子はこんな風だが、でっち上げの私の犯罪歴を創り出すには、ここからは二つのシナリオが必要になる。一つは、こうだ。

「名前くらいは言えるだろう。名は!」
 少しは英語を理解すると見てとり、ポリスが語気を強める。
「・・・ヒロミ、ヒロミ・スギタ」
 日本人は、自分の名前ではなく、他人の名を名乗る。
「ヒロミ・スギタ? どこの国の名前だ? お前は、どこから来た?」
 ポリスは、男が名乗った氏名を調書に記入する。

 このシナリオなら、AとB、どちらかの場合において、私の名前が記録される。
 Aの場合、意図して私の氏名を名乗ったのではなく、本名を名乗るのが嫌で、思いついた名前を出鱈目に言ったら、偶然、私の氏名と同じだったというもので、Bの方は、私に個人的な恨みがあり、私を犯罪者に仕立てて積年の恨みを晴らし、しかも、自分の経歴にはキズは付かないという一石二鳥の、私と顔見知り犯説だ。
 私は、あまりあくどい真似の出来る人間ではないと自分では思っているので、人の恨みをかう覚えはないのだが、神仏ならぬ生身の人間だから、他人との軋轢もあり、ときには癇癪を起こすことだってある。その方面での恨みなら完全否定は出来ないのだが、さて、その心当たりとなると、さっぱり分からない。
 一般論として、恨み辛みというものは、恨む方が一方的に覚えていることが多いのだろうから私が認知できていないだけで、恨みを持つ者は、本当は山ほどいるのかも知れないが・・・。
 
もう一つのシナリオは、これだ。

「おい、少しは喋れるんだろ、いい加減に名前を言えよ、ヒロミ・スギタさんよ」
 ポリスは、日本人に言った。  

 日本人は、彼に向かってポリスが口にした名前を聞いて視線を上げ、ほんの少しだけだが反応を示した。ポリスは続けて、
「ドライバーズ・ライセンスも他のIDも無いからって、自分が誰だか分からないだろうと思ったら大間違いだぞ。残念だが、分かるんだよこれが・・・」
 と勝ち誇るように言って、口元を緩めた。
「お前、これから強盗か殺人かをやるつもりだったんだろう? それ以外に弾を込めたハンドガンを持ち歩く理由はないからな。どのみち、銃弾を装填した銃を隠し持ってるだけでお前を挙げられるんだ。時間の無駄は止めて、吐いたらどうだ?」

 この状況もシナリオとして考えられなくもないが、都合が良過ぎて、現実性という面では、少々、無理があるかも知れない。しかし、・・・
 この場合、運転免許証も他の身分証明書も携帯していない被疑者に、取り調べている係官が名前で呼びかけるというものだ。彼が、その名前をどうやって知り得たかというと、弾を装填した銃を所持して云々、と言う係官の言葉から、当該銃器の登録名簿から割り出した名前で彼を呼んだと推察できる。
 登録されている名前が日本名で、銃を所持していた目の前の被疑者も日本人のようだとしたら、銃器の登録者本人だと先ず思うだろう。
 実は私は、以前に同じ住所で複数回、泥棒に入られたことがある。
 戦前は多くの日系人が住んでいたようだが、当時は黒人が殆どを占めていたクレンショー地区で、デュープレックスの片方を借りていた頃の話だ。
 最初のときにライフルを盗られて慌てて警察に通報したのだが、待てど暮らせど彼ら警察関係者は一向にやって来ず、遅ればせながらやっと姿を現したのはジュラルミンの鞄を提げた若いアジア系の女性で、それもたった一人だけだった。
 家の中に入ってきて彼女のしたことといえば、ドアノブや辺りの壁などにアルミパウダーをポンポンとはたいて指紋の採取をしただけで、聞き取り調査や被害品目の確認などは一切、無かった。
 私が訊くと、それは必要ないから、と彼女は言った。
 つまり、最初から探すつもりは毛頭無く、仮に盗難品が出てきたとしても、私の物とは確認できないので、盗られた時点で一件落着という次第だ。なら、今回どうして彼女がやってきたかといえば、盗難に遭ったのがライフルだからだ。凶器になる銃器の盗難事件を放っておくわけにはいかなかったのだろう。
 要するに、後々、警察の責任問題になりかねない事柄なら、渋々ながらも出張ってくるというわけだ。その証拠に、これ以降に被った二度の盗難事件のときは誰一人としてやってこなかったのだから。尤も、被害届を出せと言うのは忘れなかったが。
 で、盗難とシナリオの関連性だが、だいぶ後になって、リボルバーの拳銃が無くなっていることに気づいたのだ。壁に特殊な収納場所を造って置いていたので、他人には簡単に分からないはずだった。ライフルの盗難時と、以後の盗難時にも、リボルバーはちゃんと中にあったのを確認している。
 気づくのが遅くなった一番の理由は、ライフルの盗難時に、銃弾を造る機器や火薬など、一切合切、ものの見事に盗られていて、したがって弾作りも出来ず、射撃場に通わなくなっていたからだ。
 だいぶ長い間、銃にはまったく触れていなかったので、いつ頃に紛失したのかさえ分からなかった。
 誰かが侵入して盗んだとすれば、ライフル盗難以降に三回、都合四回も泥棒に入られたことになる。
 三度目のときは、向かいの住人が私の家から出てくる黒人を目撃していた。
 彼自身も老齢の黒人で、すまないと私に謝ったが、同じ黒人というだけで、むろん彼には何の責任もない。彼曰く、子供がサイドの小窓を割って侵入し、内側からドアを開けて大人を招き入れたのだろうとのことだった。
 私は、盗難防止になるからという彼のアドバイスを聞き入れて、提案されたように、玄関ドアの外と内からキーで開ける方式のデッドロックを装着した。
 これなら両側ともに、キーを差し込んで回さない限り、子供が入っても内側から開けることは不可能だ。
 こういうわけで、リボルバーの紛失に気づかなかった二番目の理由は、泥棒に入られた形跡が無く、盗難に遭ったとは夢にも思わなかったことだ。
 盗みを気づかせないよう注意深く泥棒に入ったとすれば、間違いなく、以前の子供と黒人の盗人とは手口が異なる。見つけ難い特殊な収納場所と、デッドロックという二つの難関も易々と突破して盗んでいるのだから、これは明らかに別人の犯行だ。

 このシナリオは、直接か間接的かはともかくとして私のリボルバーを入手し、被疑者となって警察で尋問されている日本人が今現在も所持しているという仮定で想像したものだ。盗難届も出ていないのであれば、当然、リボルバーは所持者の所有物だと誰もが思うだろう。
 だが、見方によっては都合のいい話で、こんなことは現実には有り得ないだろうが、シナリオを何度も辿り返している途中、身内の犯行なら簡単で痕跡も残さずに盗めるという思考の延長線上に、不意に、ある人物が浮かび上がった。
 当時、私は独身の一人暮らしで身内などいなかったので最初から可能性を排除していて考えが及ばなかったのだが、数年間、借家をシェアしていた人物ならいたのだ。 彼は同世代の日本人で、仮に名前を山上と呼ぶが、彼とは二度ほど、私と同居をしていたことがある。
 二回目の同居は、何度も泥棒に入られて嫌気がさしていたのと、大家との軋轢が原因で移転して間もない一軒家に、山上が転がり込んでくる形で始まった。
 彼はサンディエゴの日本レストランでクックをしていたはずだったが、辞めてLAに帰ってきたものの、行くあてもなく、私に連絡をしてきたのだった。店主には何も言わず、無断で仕事を放り出して、逃げてきたらしい。
 私が知っているだけでも、彼のそのような不義理な辞め方の数例は見てきたので、食材納入業者や他のクックたちの情報網を気にして、さすがに、帰ってきたからと、すぐに当地の日本レストランで働くわけにはいかない様子だった。
 結局、私の仕事をしばらく手伝うことになった。
 私はハウスペイント業をしていて、ある代理店と提携していた関係で仕事は結構忙しく、経緯はともかく、山上のことは渡りに船だったのだ。
 彼は繊細なところがあり、何ごとにも器用で、漫画の人物なども上手に描いたが、いざ家のペイントをさせてみると、どういうわけか、他のことと違ってこれがまったく稚拙だった。仕事が遅くへたくそな上に、一向に進歩がないのだ。
 時間を切った仕事に追われていてまだ若くもあった私は、抑えてはいるつもりでも、ややもすると口調も荒くなって、彼には耐えられないプレッシャーを与えていたのかも知れない。
 山上はある日、忽然として、姿を消した。
 仕事から帰ってみると、体調が悪いと寝ているはずの山上の姿はなく、彼の私用物や、その頃出始めたばかりで彼が欲しがり、中古品だったが私に強く購入を勧めたパーソナル・コンピュータや私のカメラなども、彼と一緒に視界から消えていた。
 山上は、それらを私の乗用車のモンテカルロに積み込み、車と一緒に私のところから逃げ出したのだった。
 これはだいぶ後になって分かったことだが、彼は私の、普段はあまり使わない積み立て用のチェックブックを箱の底の方から数冊抜きだし、私のサインを真似て、五千ドルばかりの金を引き出していることが判明した。驚いたことに、サインの筆跡は私のものと瓜二つで、あのへたくそなサインをよくも真似できたものだと、返って感心したものだ。
 山上とはリボルバーを紛失した家でも以前に同居していたことがあって、彼なら、シナリオに被疑者として登場する日本人に、人物像もピッタリと重なる。


火のない所に煙は立たないというが、無から有が生じない以上、良くも悪くも、物事の結果には必ず何らかの要因があり、点と点をつなぐ因果関係が存在する。この度の、まったく寝耳に水としか言いようもない指紋照合の経緯も、見えない糸を手繰っていけば、必ずや、そうなった理由があるはずなのだ。
 何を訊いても喋らない被疑者の山上を取り調べている刑事が、途中、名前で呼びかける二番目のシナリオも、思い当たる節を探る過程で浮かんだ山上という男の性格から連想したものだが、リアリティという観点から、私にはこのシナリオが一番真実に近いような気がする。
 いずれにしても、問題は、私の名前の記載事項が真実に基づいているか否かであり、それは、尋問供述書の指紋と私本人の指紋とを照合すれば、すぐに分かることだ。そろそろこの一両日辺りに、照合結果を知らせる手紙が着くだろうから、それで白黒がはっきりする。
 しかし、当初は怒り心頭に発し地団駄踏む思いだったのに、私の今の気持ちとしては、銃砲店に保留されているベレッタさえ手に入りさえすればそれでいいと思っていた。 
 いい加減な役所仕事に対し、私に出来うる最大級の罵倒の手紙を送りつけたせいで、頭に血が上るような怒りも、いつの間にか納まったようだった。
 アメリカは様々な科学分野で世界に抜きん出てはいるが、一般的には、日本人にはとても考えられないような単純ミスもあちこちで多発するので、あきらめが半分というのが正直なところだが。

 今日あたり、サクラメントからの結果が届くかも知れないと、出先から戻って郵便封筒の受け口が取り付けてある入り口のドアを開けると、丁度、二階の部屋の電話が鳴り始めた。壊れた体を抱えて、世捨て人同様の暮らしをしている男のところへ電話をしてくる人物など、唯一の例外である一人を除けば、誰もいない。
 受話器を取り上げて耳に当てると、聞こえてきた声は、やっぱり、当の例外の小池智子だった。
「どう、元気? 体、どう?」
 問いかける小池のいつもと変わらない声を聞くと、なぜか安堵する。
「うん、大丈夫。どうってことないよ」
「そう。今日、休みだし、ちょっとそっちへ寄ってみようと思ってるんだけど。原稿のこともあるしね・・・」
 彼女の言っている原稿とは、季刊文芸誌『移植林』に掲載する短歌やエッセイなどの作品原稿で、それを和文タイプライターで活字にする作業を私がやっている。
 つまり、印刷や製本を専門会社に発注する予算がないので、手作りしているわけだが、経費を節約する分、余計な手間暇はかかる。誰もが仕事で忙しくてその手間暇さえままならないとなれば、必然、暇人の私に出番が回ってくるのが自然の理という寸法だった。
「それなら、そっちへ行く便があるから、合流して一緒に来ようか?」
 行き違いになっても困るし、私が向こうへ行った折に落ち合おうと、電話の彼女に提案した。
 私が住んでいるこの辺りは物騒で、ケンカや発砲事件が多発するなど、最近、とみに治安が悪くなっているので、小池智子を一人で来させたくはなかった。自分に非はなくても、いつ何時、どんな事件に巻き込まれるか分からないほど危険なのだ。
 ポリス対ストリート・ギャング、ギャング対ギャング、互いに敵対する彼らの憎悪が社会に飛び火し、それが悪性の流行病のように人々を蝕んでいる。決して大袈裟ではなく、人心の荒むさまは、殺伐とした戦場と何ら変わらない。

 同じ日の午後、予定通りに小池智子と合流した後に、私の心配した危惧は現実となった。
 私と彼女はそれぞれ自分の車に乗り込み、ハリウッド近辺のフェアファックスを南下して東寄りに車を走らせた。五十二番に入ってノーマンディを横切り、少し走ったころ、先頭の私の車が黄色の信号で交差点に入ったのだ。
 小池が少し後に付いてきていたので、普通なら信号の手前で停車するはずだったが、黄色で入って、しまったと思った時はすでに遅しで、止まれもせず、そのまま突っ走ってしまった。
 なぜそんな不覚を取ったかというと、信号機の手前を走っているときに、左の道路脇で、若い黒人の男が拳銃を撃ったのを目撃したからだ。何に向けて発砲したのかは定かでないが、撃った後、彼は急ぎ足で家の角を曲がり、それから走ってどこかへ消えた。
 路上での発砲と出くわすのはこれで二回目だが、二回とも私の住んでいる場所からそんなに遠くない。
 ともあれ、そのことに気を取られて、信号を見るのが遅れ、私に付いてくる後続車がいるのに、黄色での信号突入となったのだ。
 すぐにルームミラーで後ろの小池の車を見ると、彼女もそのまま止まらずに直進するではないか。この辺りの地理に疎いために、見失ったら困ると無理をしたのだろうが、あ、と思うまもなく、彼女の車は、対向車線から左折してきた車と衝突した。
 私はすぐに車を道路脇に寄せて止め、事故の現場の方へ歩いて行った。
 小池智子は車から降りて、呆然自失とした態で立っていた。
 事故相手の黒人も車から出て、小池に向かって大袈裟な身振りで叫き散らした。
 彼に歩み寄り、私は自分は彼女の知り合いだと言うと、彼は、今度は怒号の矛先を私に向けた。
 私の背中に戦慄が走ったのは彼の怒号ではなく、その少し後からだ。
 何事があったのかと、立ち止まったり車から降りたりして人が集まり、見る見るうちに私と小池智子の周りに大勢の人だかりが出来たのだ。事故相手の黒人男は、彼らに向かっても私たちを非難し始め、集まった野次馬たちも、口々に、何やら言いたい放題に喋っている。
 黒人ばかりの人垣に囲まれると、アメリカ人でもないのに、私の脳裏に既視感じみた感覚が交錯した。車が大破した人身事故なら知らず、単純な普通の交通事故にどうしてこれだけの野次馬が集まって来るんだと気味が悪くなって、背中に戦慄のようなものが走った。
 多分、彼らは私たちを、日頃から自分たちと激しく反目しあっている韓国人と間違えているに違いないと私は思った。彼らの目には、慣れていなければ、日本人も韓国人も見分けはつかないだろう。そうでなければ、誰ひとり怪我もしていない交通事故に、これほど人の注目が集まるわけもない。
 私の既視感は、前にベリーから聞いた昔のワッツ暴動の経緯が影響したのかもしれない。
 彼の話では、暴動は、飲酒運転の容疑でポリスに止められた若い黒人男性が、飲酒の有無を検査するソブライアティ・テストをしくじったことから始まったという。
 容疑者の母親が人づてにそれを知って現場に駆けつけ、ポリスに向かって叫き散らしたことから人が群がり、最初の四、五人からあっという間に何十人、そして最後には何百人に膨れあがって暴動になったというあのくだりだ。
 今の私の状態は、最初の四、五人からあっという間に何十人と、話に聞いた暴動の始まる様子とまったく同じで、ひとつ間違えば、一触即発の危険があった。
 何十人から、何百人の群衆となる前に事を納めなければ命取りになる。
「この事故は、保険会社が解決する! 私たちが悪ければ、保険会社はあなたにお金を支払う!」
 私は周りの皆にも聞こえるように、大声で言った。
「何の心配もない!」
 私のこの一言は、この一触即発状態を煽るか鎮めるかの分かれ目になったと思う。
 周囲の群衆の反応に、小さな変化を感じたのだ。それは、鎮めるとまではいかないまでも、少なくとも、煽る結果にはならなかったというささやかな変化だ。
 しかし、この小さな変化が膨張を抑えたとしたら、偉大な変化となる。
 上手くない私の英語と態度や雰囲気、それらの諸々で判断し、韓国人とは違うと感じた何人かは居たのではないだろうか。

 日本人は、韓国人とは違う。
 よく同じ文化圏で似たところもあると言う人もいるが、千四、五百年前の大昔なら知らず、実際は文化的にもまったく異なるのが大部分で、過去から現代に至る社会形態や慣習、民族気質などの諸々は、もはや異質と言っても差し支えないくらい、徹底的な違いがある。
 そんないい加減さへ舌打ちしたい私の思いを裏付けるように、日常的に両者と接して、その違いを肌の感覚で知り、憤っているのが、今現在、一九九二年、春先の黒人社会なのだ。
 自ら米国で差別を受け、そのアンフェアな扱いに苦しんできた日系人は、同じマイノリティであり、酷い人種差別の歴史を持つ黒人とも友好的にやってきた。しかし、急激に移民の数を増やし、黒人社会でリッカーストアや小さなマーケットなどのビジネスを進出させている韓国系は日の出の勢いで、鼻息も荒く、黒人たちともろに反目し合い、強盗、殺人に至る極端な凶悪事件も多発しているのが現状だった。
 店の商品を買ってくれる大切な商売上の客であり、丁重に接するべきはずの相手に向かって、あろうことか、無職だとか怠け者だとか言って蔑み、ときには盗みの疑いさえかけるとあれば、木石でない限り、穏やかではいられない。むろん、黒人の多数が無職を強いられている背景は、怠け者の一言で片付くほど単純ではない。
 買い物だって、車を持つ甲斐性もないから、仕方なく歩いて来れる近場の店を利用するしかないのだという認識しかないなら、大切な店の客もへったくれもあったもんではない。
 つまり黒人にとって在米の韓国人は、いよいよもって堪忍袋の緒も切れそうな、我慢ならない不倶戴天の敵だったのだ。
 だから、彼ら黒人の目から見れば、日本人と韓国人は、見てくれは同じようであっても、まったく中身の異なる、似て非なるものだったのだ。
 小池智子と私が巻き込まれた交差点での交通事故現場で、短時間にあれほどの数の黒人たちが集まってきて取り囲んだのも、当初、彼らが私たち二人を韓国人だと思ったからに他ならない。それを証明するかのように、私の発した一言の後、日本人だと判断し、彼らは潮が引くように立ち去ったではないか。
 もしも私たちが韓国人だったら、人数はなおも急激な上げ潮のように膨らんで巨大な津波となり、二人を呑み込んだかも知れない。そしてまた、日本人、韓国人の区別はどうあれ、何人であろうとも、あのような状況で大勢に囲まれたとき、慌てふためいて少しでも逃げる素振りや萎縮する弱みを見せたら、無責任で暴力的な群集心理に火を点けるきっかけにもなりかねなかっただろう。
 正直なところ、私が人並み以上に冷静沈着で胆力があるとは夢にも思わないが、あのとき、あの場所で黒人たちの群れに囲まれたとき、通常の自分では出来ない力を出したのは感じている。
 その力の根源は、茫然として立ちすくんでいる小池智子の姿だった。
 そのとき、この人だけは守らなければならない、と強く思ったのだ。
 守るべき人の存在こそが弱い人間にも力を与えるのだと、しごく当たり前なことを、今はこの身に染み入るように感じている。
 幸いにして群衆暴力による災難は避けられたが、交通事故で、小池智子が運転していた車の左前部は、かなり大きな破損が残った。
 彼女のうかない表情から、亭主に、この事故の状況を説明しなければならない困難を想像して、何とかしてやりたいと思いながらもどうする術もなく、私の気持ちも沈んだ。 
 内臓破裂で折れた膵臓を手術した後の経過が思わしくなく、最近は、強い酒で気持ちを麻痺させる日々が続いていた。いつ死ぬかさえ定かでない上に一文無しときている身に、人助けなど望外なことでしかない。持ち物といえば、ベリーから私の手に渡ったばかりのニッサン・マキシマだけだ。
 そうだ、マキシマがあるではないか、と私は思った。
「智子さん、オレの車をやるよ」
 中古とはいえ、長い間倉庫で眠っていただけで走行距離も少ない極上車だ。この車と引き替えなら、事故を起こした彼女の亭主の憂さも少しは晴れるのではないか、と考えたのだ。
 


 ベリーが昼前にやってきて、                      
「また、車を磨いているのか?」
 と、半ば冷やかし気味に声をかけたのは、小池智子が、私のところへ来る途中で起こした交通事故の負担を少しでも軽減したいという思いから、ベリーから私の所有となってまだ日も浅いニッサン・マキシマを彼女に渡す決心をして 車を磨いていたときだった。
 今のところ、別段、車を使う必要もない身には、どちらかといえば、乗るより磨くほうに多く時間を費やしていた感が無きにしも非ずで、彼の冷やかしは、満更、的外れでもない。ただ、私の手でこの車を磨くこともこれが最後だろうからと、いつもよりは念入りにワックスがけをしたのだが、実は、最後にこの車に乗る用事も出来て、そのことを丁度、ベリーに話したいと思っていたので、彼が姿を見せたのはグッド・タイミングだった。
 出かける用事というのは、サクラメントの役所から、昨日、指紋照合の結果は不一致、と知らせる手紙が届いて、購入はしたものの、銃砲店に留保されたままになっている9mmベレッタを受け取れるので、一緒に行かないかと持ちかけるつもりだったのだ。
「ベリー・・・」
と彼に声をかけたのと同時に、
「知ってるか、ヒロミ」
と、ベリーの方からも話しかけてきた。
「何?」
 私は、先に彼の話を聞くことにした。
「日本からカズの息子がうちに来たんだ・・・」
「カズ?」
「ほら、この間、レストランで倒れて死んだだろう? ヨーコの弟の、彼だよ」
「ああ、彼」
 思い出した。車との交換条件で、私がペイントした母屋の大工仕事をしたりしていた初老の日本人だった。確か、ベリーの弁によると、何か仕事をさせなければ酒ばかり呑んで仕方がないから、ということだったが、 気がよさそうで、人好きのする印象が今も脳裏に残っている。
「その、カズさんの息子が来たの?」
「うん、カズの持っていた住所に、ワイフが手紙を出したから・・・」
「そう・・・」
 確か、カズさんと息子は、もう何十年も会ってはいないと聞いていた。だからベリーも、日本に知らせても音沙汰はないだろうと言っていたから、内心、意外だったものの、来てくれて良かったなと思った。
 別れたっきり、長年会っていない息子の住所を肌身離さず持っていたカズさんと、育ててくれもしなかった父親の死を知り、アメリカまでやってきた息子・・・・。  親子の情や人間関係は、傍目には、到底、計り知れないということだろう。
 どんな感じの息子かとか、カズさんの遺骨も彼と一緒に日本に帰るのかとか、訊きたいこともあったが、出かかったそんな類の言葉は皆、呑みこんだ。余計な詮索だし、海を渡って日本から彼の息子がやって来たというその事実だけで、そうか来たのかと思えるだけで、どこかほっと安堵するものがあり、他人事としては、それだけでもう十分だった。
 人の世も、満更、捨てたものじゃないらしい。
 私は、長い間、身に覚えのない、忘れかけていた、何かほのぼのとする感情に触れた気がした。
 ほのぼのとはしないが、ほっと安堵させられたニュースなら、もう一つある。
「ところで、ベリー」
と、私はカズさんの息子の話から話題を変えて、そっちのニュースを切り出した。
「サクラメントから返事の手紙が来て、銃が受け取れることになったから、一緒に行く?」
 本来、こっちのニュースはもう少しで犯罪者にされるところだったので切実な安堵なはずなのだが、役人の無責任さというか、彼らの脳無し振りへの腹立たしさの方が強すぎて、安堵の実感はあまりなかった。 
「おう、ついに来たのか。じゃ、オレのトラックで行こう」
 べリーは、二つ返事で承諾した。

 オレンジカウンティの銃砲店は、相変わらず沢山の客でごった返し、芋の子を洗うような状況だった。
 カウンターの向こう側では、決して少人数でもない売り子店員たちが皆、殺気立つような雰囲気を帯びてきびきびと接客し、立ち働いていた。前回同様、この光景は、あたかも日本の百貨店の年末商戦の様子を思い出させるような多忙さだった。
 店内の客の層はといえば、ざっと見渡した限りでは、黒人、ラテン系、アジア系などは誰一人として見当たらず、殆んど全員が白人の客たちばかりだった。押すな押すなのごった返し状態のそれは、まるで戦争前夜で、自己防衛のために、人々が銃器や弾薬を手に入れようとしているようにも思えた。否、もっと正確に言えば、白人たちが一挙に誰かに襲われるのが分かっていて、その応戦準備をしているといった感じがした。
 私はサクラメントからの手紙を店員に見せて、先に購入したベレッタを受け取りたいと伝えたが、店員は、既に支払い済みで売り上げに貢献しない私のような客にはけんもほろろの応対で、銃器の入った箱を私に手渡すと、さっさとほかの客の方へ行ってしまった。  

 大勢の白人客でごった返す銃砲店の忙しさときたら異様なほどで、普段は割合に閑散としている場所だからというだけでなく、買い物客に白人客以外の人種が見当たらないのがそもそも普通では考えられなかった。ここカリフォルニアでは、黒人だけでなくアジア系や南米系、それから中東にロシア系と、それこそありとあらゆる人種が住んでいる。申し合わせたように白人客だけが集まるのは、有り得ない光景だった。
 私が異様に感じたのはそこが銃砲店だったからで、白人だけが争って銃器を手に入れようとしている姿は、さながら、彼らが他人種に攻撃されるので銃や弾丸を買い漁っているのでは、と思わせるような光景だったのだ。防御、応戦のための銃弾薬を大急ぎで調達している戦争前夜さながらの状態で、辺りには殺気立つものがある。
 ベリーと一緒だったが、私以外、他にアジア人は見当たらず、一瞬、入ってはいけない場違いな世界に紛れ込んだような奇妙な錯覚を覚えた。否、込み合っているとはいえ、一段高くなっているカウンターの向こうの販売店員の対応が、まるで私を追い返すかのようにけんもほろろな接客態度だったので、歓迎されざる客という意味では、場違いというのは全くの錯覚でもなかったかも知れない。もしも実戦の準備に忙殺されている最中だとすれば、趣味で能天気に銃を物色する闖入者は、確かに邪魔者以外の何者でもないだろう。
 で、白人ではない邪魔者だとしても、善意の一般客を邪険にしてまで彼らが準備に忙殺される相手とは一体誰なのか? 銃口を向けて引き金を引く敵とは、一体全体、どこの誰なのか?
 私が思い当たる相手は、彼らしかいない。黒人だ。
 去年、一九九一年は記録的な犯罪発生率だったようだが、夏には未だ早い四月だというのに今年も物騒な世相が収まる気配はない。現に私の住んでいる場所では、黒人の多いエリアだが、頻繁にギャング絡みの銃声が響き渡る始末だ。
 今、その黒人の誰もが皆、ある特定の人たちに激しい怒りを向けている。
 誰にか? アメリカ国中の白人に対してだ。ロドニー・キングを殴打した白人警官たちが、それを一触即発状態にまで一気に盛り上げたのだ。否、一人白人だけでなく、十五歳のラターシャという黒人の娘が韓国人のマーケット店主に撃ち殺されて僅か五百ドルの罰金刑を受けて以来、韓国人と社会の法体制そのものに対しても、彼らは怒り心頭に発しているのだ。
 元々、韓国人と黒人はラターシャの事件に見るような軋轢が絶えなかった。新聞には載らない事件で韓国人店主が黒人に撃ち殺される例は枚挙にいとまがない程あって、他民族の人たちは知らなくても、韓国社会はそれが口伝えで伝わっているから益々黒人と対立するという悪循環に陥っている。
 アメリカの新聞にとってマイノリティ同士の事件なら、例えそれが殺人事件であっても事件にはならない。つまり、重要視しないので事件にはならないのだ。ラターシャ事件の場合、彼女がまだ十五歳の少女だったから報道されたに過ぎない。
 随分昔に、ある日系人から聞いた話がある。古い日系社会には独特のギャング組織のようなものがあって、時折、仲間内の殺人事件なども起きたようだが、LAの警察は捜査に無関心だったと私に話してくれた。「ジャップ同士の殺人事件なら、却って起こる方が、奴らが減って丁度良い」ということらしかった。
 その理屈が、黒人と韓国人の事件にも当てはまるのかどうかは知らないが、兎に角、殆どの事件は事件として報道はされなかった。
 現在、ロドニー・キングを殴打した警官たちの裁判が進行中で、まだ判決は出ていない。従って、まだ有罪とも無罪とも決まっていない状況の中で白人たちが銃を買い漁っている光景が湧出するのは、彼らの多くが、警官たちが無罪になるのが分かっているからに相違ない。
 では、なぜ無罪が確信できるのか?
 強盗事件で仮釈放中の身でありながら飲酒運転の猛スピードで逃走を図った被疑者を捕縛した警官たちの過剰行動の正否を問う問題なら、当然、問題無しで、また、そうでなければ警官の公務は執行不可能だと、白人社会なら強調するだろう。それに加えて、裁判が行われているのは白人の居住地区であるシミバレーで、当然、陪審員十二人の殆どは白人であって、他人種はアジア系やラテン系の数人しかいない。
 このような裁判の状況で出る判決なら、無罪以外に予想しようもない。しかし、黒人社会の不満や鬱積は最高潮に膨らんで不穏な状態に達しているので、判決の日が来ればどうなるか分からないし、悪くすれば、一九六五年夏のワッツ暴動のようなことが起きないとも限らないと、白人たちは誰もがそう感じているのだろう。
 同人種の血の中に流れている連帯意識に誘われるかのように、自分の身を守るための銃器を購入しようと銃砲店に押し寄せているのだ。

 とにもかくも異常に血走った店内の雰囲気ではあったが、ベリーとも相談して9ミリの弾丸数箱とベレッタ92の予備弾倉を二つ購入し、本当は握り手の銃床の部材をクルミ材に替えたかったのだが、それはまた今度ということにして、私たちは店を出た。
 ベレッタ92FS、ベリーや他のアメリカ人はブレダと発音するが、デザイン、性能ともに優れたイタリアの銃で、入手の物はアメリカで制作されていた。ものの本によると有効射程距離はおよそ五十メートルで、アメリカの軍用拳銃としても採用されたと記述がある。回転式拳銃のリボルバーは以前に所有していて取り扱いは分かっているが、セミオートマチックの自動拳銃はまだ一度も使ったことがなく、初心者同様だった。しかし、構造や機能は大体分かっているので、前によく通っていた野外射撃場で試射したい気持ちが逸る。
 異様な雰囲気の銃砲店を後にして家に帰り着くと、弁護士事務所から手紙が届いていた。それは来月の五月六日に、パサデナでコート・ヒアリングが予定されたということを知らせる内容だった。手紙には、実際の裁判と同じ取り扱いなので、そのつもりでいるようにと、念を押すような一文も添えてあった。
 遅々として進まない裁判の行方に、毎日毎日、待つ身の苛立ちが募っていただけに、やっと来たかと、安堵する気分だった。わざと遅らせているわけでもあるまいが、告訴をして裁判所に行くまでに何年も待たねばならないのは、正直言って疲れる。しかし、こればかりは他人が介在し取り扱うものだから、自分がいくら焦ったところでどうなるものでもないのだ。分かってはいるけど、時が来るのを待つというのは、案外、辛抱が要る。
 銃砲店の込み合いぶりと同様、裁判所も訴訟やそれらに付随する雑務で毎日が混雑しているのだろうか。考えてみれば、この特殊な二つの場所が多忙を極めるというのは、一体どういうわけなんだと、ふと、胸の内に小さな疑念が湧いてくる。平凡で穏やかな生活を営んでいる殆どの人々にとって、銃砲店と裁判所は普通、全く縁のない所だ。人によっては毛嫌いする場所かも知れない。
 閑古鳥の啼く状態こそ好ましい場所だろうに、ネコの手も借りたいほど忙しいとは、どう考えてもまともな社会じゃないだろうと、つい自問自答も始まったりするが、煎じ詰めれば、自分自身がそのまともじゃない事柄に濃く深く強く関わっている状態だったというのが嗤える。
 まさに今日、本日、買ったばかりのベレッタと弾丸の箱を机の上に置き、首を長くして待っていた弁護士からの手紙を読んでいる自らの現実に、(お前が言うか)状態になっていて、笑えない。
 とはいえ、ベレッタはともかく、自分が誰かを訴えて裁判所沙汰を起こすなど、夢にも思ったことはなかった。その意味では人並みに、平凡で穏やかな一個人のはずだった。どちらかというと、例え不利益を被るとしても、自分の我慢で済むことなら事を荒立てず、引き下がる方を取る性質なのだ。自分を抑えるだけで済むなら、結局、それが一番楽だったのだ。子供の頃に祖母が私に、「おまいは、もうちょっと覇気がないといけん」と嘆いていた記憶があるから、勝気や野心はあまり持ち合わせてはいなかったのだろう。
 そんな性質の男があろうことか、数人のシェリフを告訴して、世が世ならぶった切ってやりたいと思うほど怒り狂って熱い復讐心を燃やしているのだから、人心とは分からないものだ。          

 アメリカ人にとって銃器の所持は憲法で保障された当然の権利なのだが、何分、神でも聖人でもない、どちらかというと失敗を糧に生きているような人間の手で取り扱うのだから、当然リスクだらけで、見ように依っては、キチガイに刃物みたいなところもあるかも知れない。しかし、理屈では神や聖人に銃器は必要ないのだから、とどのつまりは、半端で未完成な人間の道具なのだ。どんなものでも、使い方に因る。
 数年前、1989年の一月にストックトンの小学校で銃の乱射事件があり、六歳から九歳になる学童と一人の教師が犠牲になった。二十九人か三十二人だったか定かでないが、確かそれくらいの人数の生徒も負傷している。犯人はその場で自殺したようだが、この事件のせいで、一年ばかり後に、全米で初めてという大規模な銃規制がカリフォルニア州で行われた。全く、迷惑な話だ。
 だが、このような事件がこれから先にまだ起こるとしても、アメリカ人は銃を放棄しないだろう。そんな恐ろしいことは出来ないと多くの人は考えているはずだからだ。アメリカはそういう社会だと私は思っている。ワシントンやニューヨークなどの一部を除いて、国の大部分は言ってみれば大いなる田舎であって、そこで銃が凶器になることはなく、あくまでも自分を守る武器としての機能しか認識し得ないのだ。
 購入したベレッタを受け取りに行ったときの、あの、あたかも年末の百貨店で食料品を買い求める人々のように銃器を買い漁る銃砲店内の混雑を見ても、この国は間違いなく銃社会なのだと確信したし、同時に、金輪際、人々が銃を手放すことはないだろうとも思った。
 それにしても、近頃は、緊張感が直接肌に感じる位に世の中が騒然としている。ドラッグ関連の事件が頻繁に起こり、ポリスの度を越した、殆ど犯罪と言ってもいい過剰な取り締まり行為が度々新聞沙汰になっていて、姦しいことこの上ない。韓国人と黒人との間のいざこざは相変わらず耳にタコができるほど聞こえてくるし、人種間の軋轢はひとり彼らだけに留まらず、サンゲーブル・バレーの方の学校では、中国系とメキシコ系の学生同士で民族的な争いも散発しているらしいから、人々の苛々が高まっての騒然さなのだろうが、物騒な世の中になったものだ。

 その日、四月二十九日の水曜日は、昼過ぎに、小池智子がやっているハリウッド通りとファーマーズ・マーケットの間辺りにある店舗に顔を出した。ユダヤ人が多く住んでいる地域で、彼女の店もユダヤ人に需要のあるドライ・フルーツや食用のシーズ類(ヒマワリの種など)や様々な種類のコーヒー豆を販売している。イスラエルで発行し、空輸されるヘブライ語の日刊新聞やロッタリー等のくじの類も売っているので、人の出入りは結構あった。
「それじゃ、そろそろ帰るから・・・」
 今日は、前に私の所へ来るときに事故に遭い、破損した彼女の小型トラックの損害を少しでも支える意味で私の車を提供することを伝えに来たのだが、来月の初めに弁護士と裁判所に出る用事があるので、それが済んでから車のキィを渡そうと思っていた。
 店の奥まった場所の、ショウケースを兼ねた大きな冷蔵庫の裏側に備え付けてある小机に掛けていた私は立ち上がりながら、目の前の、ソニー製のポータブル・テレビの小さな画面を消した。消す前は、ニュースキャスターが、ロサンゼルス市警の警官が無罪の評決を受けたと喋っていて、消した画面に、残響のように彼女の言葉が残った。
(無罪か・・・)
 彼らが無罪と聞いても、格別に何の感慨も湧かなかった。
 私の中では当たり前の話だったからだ。犯人を逮捕するときの殴る蹴るは警官にとっては意外でも何でもない、ごく常識的なことで、日常茶飯事なのだ。現にこの私も、そんな彼らの行為が原因で、生死を彷徨う被害を被っている。少々の殴る蹴るは当たり前で、撃ち殺されないだけでも有難いと思わなければならないのだ。これは冗談でも何でもなく、実際に、不合理に、大勢の黒人が彼らに撃ち殺されている。
 というわけで、白人が居住するベンチュラ・カウンティ地区で裁判し陪審員も殆どが白人とくれば、有罪になる方がおかしい。無罪評決はひとかけらの違和感もない、ごく日常的な風景の一部でしかなかった。
「帰る? じゃ、気をつけて帰ってね」
 向こうの、レジの前に立っている小池智子が笑顔で言った。
「じゃ、また来るから」
 私はその笑顔に向かって言った。彼女の表情はいつも実に穏やかで、いい笑顔をしている。私はその穏やかな表情を見るのが好きだった。
 手を振り、私は彼女の店を出た。
 店からハリウッドフリーウエイに乘るまでの十マイルばかりローカルの道路を東に向かって走っていたときは、通りの様子は普段と同じで、別段、どこも変わるところはなかったが、フリーウエイに入ってからは少し様子が違ってきた。時間的にみても何だか車が少ないようだし、しかも、誰もがいつもより速度を落として走っていた。何故だか知らないが、どの車もノロノロ運転をしているのだ。
 ダウンタウンでハーバー・フリーウエイに乗り換えて私が降りる予定のセントラル方面に向かい始めると、その傾向は一層、極端になった。少し行くと、私の先には警察のパトカーが縦列に並んで走っていて、しかも、その数は二台や三台ではなく、今までには見たこともない十台以上の白黒のパトカーが、他の車よりなおゆっくりと、ノロノロ運転でフリーウエイの端っこを走っているのだ。
(一体、何なんだこれは・・・)
 そのパトカーの一団を追い越してしばらくすると、また同じようにパトカーの集団がノロノロ運転で移動している。
 何だか知らないが、これは明らかに、どこかがおかしかった。
 私は同じようにパトカーの隊列を追い越してから、自分の車の速度を落とした。そして何気なく、ふと、目に入ってきた出口のエグジットの方を見ると、赤と黄色の円錐状のコーンが一列に並べられ、出口を塞いであったのだ。
(おいおい、ここは出られないのかよ・・・)
 工事をしている風でもないのに出口を塞ぐのは、上からの強制的な意図だけが強調されているようで、あまり好い気はしない。
 だが幸い、私が降りるフローレンスのエグジットは閉鎖されてはいなかった。
 車を進めてローカルの道路に入り、家に向かうべく右折すると、対向車線のノーマンデイの方向から、またパトカーの一団がやって来る。少なくとも十台から十五台の長い列が並び、フリーウエイで出逢った他のパトカー集団のように、ノロノロと運転していた。
 私は彼らを見て、今回、流石にその異常さについて合点がいった。
 小池智子の店で観たテレビのニュースのせいだと気付いたのだ。今更ながらだが、つまり、ロドニーキングに過剰な暴力を振るった警官たちの無罪評決に黒人たちが怒り、騒動になる怖れがあるということに間違いなかった。
(おい、これは大変なことだぞ)
 ここに至って初めて事の重大さに気付き、フロントガラスの方に身を乗り出すようにして辺りを見回したが、まだ辺りに異常はない。住んでいる場所はフリーウエイを降りてあまり遠くないので大丈夫だとは思うが、もし、無罪評決のニュースが原因の騒動が起こるとしたら、先に何が待っているかは誰にも分からない。
 小池智子の交通事故の現場であっという間に大勢の黒人たちに囲まれたときの記憶が蘇って、私の気は焦った。

                                      
 車を止めてベリーに借りているガレージの二階に急いで戻るや、すぐにTVのスイッチを入れた。画面が現れるのを待つのがもどかしいほどだった。出た画面はLAのダウンタウンで、緊迫した声のアナウンサーが街の様子を実況中継していた。見覚えのある店舗のショーウインドーに物を投げつける男が映り、喚き散らす者もいて、思った通り、やはり暴動が起こっている。
 普段とは少し様子が違ったがフリーウエイに乘っていたから、ダウンタウンの異変には全く気付かなかったが、私が通ったそのとき、時間的には既に暴動は始まっていたのだ。
 TV画面は次に、南のノルマンデーの辺りを空中から中継している様子を写し出し、女性のアナウンサーがヘリコプターの男性アナと連携して、また火事が発生したと、やや興奮を抑え気味に喋っている。私は黒人たちが動き回る姿や煙が上がる画面を見ていて、カメラが捉えているのはこの付近だと分かり、思わず緊張した。     
 と、ほどなく、TVではなく、現実に独特な火事の煙の匂いがこの部屋の中にも忍び込んできた。放火された建物から立ち上る煙で、辺りの大気は匂いが充満しているようだ。
 TVは続いて白人のトラック運転手が黒人に襲われて大怪我を負ったと伝え、ノルマンデーの通りを写している。停車したトラックを襲い、運転していた白人男性を引きずり下ろして、何か物を持って殴り続けたらしい。騒然とした感じのその事件現場も、ここからはそう遠くはない。
 白人男性がターゲットになったのは、出されたばかりの白人警官らの無罪評決の反動だとしても、もしも、銃器店で銃や弾丸を買い漁っていた白人層が今回のこの暴動が起こるのを予期して用意をしたのだとしたら、アメリカの人種間の確執は、外国生まれのよそ者には俄かに理解出来ないくらいに根は深い。
 とは言え、いくら何でも半殺しにするほど殴る必要はないではないか。やり方が狂っていると私は思った。暴動というより、怒りのままに他人に襲いかかって殺人をやるのと何ら変わらない。
 それからTVを観ていてふと気づいたが、不思議なことにストリートにポリスたちの姿が一人も見えないし、この付近で大変なことが起きているというのに、サイレンのひとつも聞えない。いつもなら黒人のドライバーと見れば理由もなく車を止めるあの警官たちが一切、現れないのだ。帰りに見た隊列を組んで徐行するように静かに走っていたパトカーの一群は、あのまま何処かの異次元へと消えてしまったかのように、見事に姿を消している。
 もしかしたら、消防署も警察も全く動いていないのではないかと思った。だとしたら、あの大きな組織のあの大勢の消防署員や警察官は、今、どこでどうしているのか。まさか、身の危険を恐れて警察署の片隅で、皆で息を殺して潜んでいるのかとの疑惑が湧く。

 人を殺そうが何をしようが警察は来ない。人を殴ろうが店の物を略奪しようが放火しようがパトカーも救急車も消防車も来ない。
(自分の身は、自分で護るしかない・・・)
 私は東洋人だし、この家も襲撃されるかも知れないと思い、買って間もないベレッタの拳銃を出して弾倉を抜き、弾を込めた。こんなことになるとは想像だにしなかったので、予備の弾倉は一つしか買ってはいない。回転式のリボルバーと違い、オートマチックは素早く弾倉に弾を込めるのは不可能だから、全弾込めても十八発しか撃てない。此処を何人かで襲われたら万事休すで、撃ち殺されて一巻の終わりだ。
 もしも襲ってくるとすれば数人で、まず一人ではないから、迎え撃つ側は、弾を詰めた予備の弾倉を傍らに置いてどんどん撃ち返さない限り勝ち目はない。私は弾倉を一つしか買わなかったのを少し悔やんだが、後の祭りだ。とは言え、市街戦をやるならともかく、普通、何個も弾倉は買わないのだから殆ど無いものねだりに等しかった。
(こうなったら、襲って来た奴は一人でも二人でも道連れにしてやる・・・) 
 私は覚悟を決め、弾を込めた拳銃を握って、南側の窓を少し開けてみた。すぐ前に小さなテラスがあって、いつもそこのテーブルに座ってベリーとコーヒーを飲んで話す場所だったが、外を見ると、下の方に白人の年寄りが一人立って、辺りを見回していた。下の母屋に住んでいるベリーの兄だった。
 弟と違って極端な無口だったから、彼とはあまり話したことはない。別段、こちらから呼びかけることもなかったので、実のところ、名前さえ知らなかった。ただ、出逢えば、挨拶くらいはしたし 同じ敷地内で比較的に会う機会は多かったから、よく見知っている爺様といったところだった。 
 ベリーの弁によれば、長年、近くの学校でジャニターの仕事をしているという。七十は過ぎているように見えるが、年齢や風体のイメージからは少々かけ離れた若者向きの大型で真っ赤なスポーツタイプの車に乗って、いつも派手な排気音を辺りに響かせているので、人の好みは見かけによらない。
 彼は窓を開けた私に気付くと、軽く手を上げた。私は、
「何をしている、すぐ家に入れ!撃たれるぞ!出るんじゃない!」
と大きな声で怒鳴るような調子で言った。
 彼は私の荒い物言いに驚いたように、そそくさと家の中に入って行った。
 善良な彼はよく認識していないようだが、彼はこの暴動のターゲットとされている白人なのだ。ぼーっとして人目に立つところに身を晒すことが如何に危険かは、あまりにも明らかではないか。何より、ここら辺は普段から頻繁に銃声のする地域なのだ。そしてそれは、人が人に向かって如何に簡単に引き金を引くかという証左でもある。
 強い言い方をして気の毒だったが、撃ち殺されるよりはマシだろう。私も知り合いの爺様が、それもベリーの兄貴が撃たれるのは見たくもない。

 外の気配に気をつけながらニュース中継に目をやっていたが、夜に入り、TVで知る限り、時間が経つにつれて暴動は段々激しくなる様相を呈していた。しかし、暴徒たちは店舗などの物を略奪はするが、個人の家屋を襲う輩は無さそうだった。そしてこの頃になると、暴徒は白人ではなく、韓国系の店舗を狙っていることがはっきりしてきた。韓国人が経営する店を集中的に襲い、商品の略奪や放火を繰り返しているのだ。
 白人の警官らの無罪評決に怒って暴動を起こしたのに、蓋を開けてみれば襲う相手が韓国人だったわけだから、一体、白人の方はどうなったのだという思いがあった。
 これは本などから得た情報で判断したもので、自分が実際に経験したものではないから自信はないが、やっぱり黒人たちは白人をターゲットにした後の報復を恐れて矛先を韓国系へ向けたのではなかったか、という思いが私には強くした。
 彼ら黒人は、奴隷としてアフリカから連れて来られるときから反抗と手痛い報復の双方を身に沁みるほど連綿と繰り返して来て、自ら身をもって体験しているのだ。奴隷船の記録では、積み込まれた人数が下船時には半減していた例がそれこそ数えきれないほどある。白人の船長は、他へのみせしめに、反抗する黒人を容赦なく海に叩き込んだからだ。
 陸へ上がって白人の農場主のところへ買われて行っても、そこでまた見せしめの報復が繰り返されることになる。その目的はただ一つ、従順な奴隷にするためだ。言ってみれば、黒人の対白人の歴史は、見せしめのための手痛い報復の繰り返しに尽きる、と私には思えた。
 彼ら黒人にとって、白人は恐ろしい存在だと、血にしみ込まされているのではないだろうか。だからこそ、本能的に白人を避け、以前からの軋轢ついでに、彼らの怒りの矛先は韓国系へと向かったのだ。

 もしも、仮に、暴徒が白人に向かえば、白人たちは正当防衛という名目の下で、間違いなく、そして容赦なく、準備していた武器を使用しただろう。           
 
 夜が更けてもTVは途切れることなく暴動の様子を伝えているが、どのチャンネルも暴れる暴徒を映し出すだけで、警察官や消火に当たる消防士の映像は放映されなかった。手に負えず息をひそめているのなら、何故、TVや新聞はそんな警察官や消防士たちの様子を取材し、視聴者や読者に発信しないのだろうか。取材源として公務員の彼らとは親しく、言わばグルのような間柄だから目をつぶっているのか、それとも、単なる無能なのか。双方とも同じような系統で色合いも似ているのは理解できるが、馴れ合いで黙るとなると、お前らもう仕事をやめろ、と言いたくなる。
 何故、暴徒を取り締まらないのかという思いは、暴動のど真ん中に住んでいるからこその、切実な要求なのだ。家に押し込んでくるかもしれない暴徒を警察が抑えないのなら、自衛しない限り、殺されるしかない。韓国人の店舗が燃える周りを怒号を発しながら人が走り回る光景はまさにこの付近のもので、韓国人と外見が同じに見える日本人の自分にとっては間違えて殺されかねない切実な問題なのだ。警察が動かないことが自分の命と直結しているだけに、彼らへの腹立ちは簡単には収まらなかった。
 しかし、騒ぎは収まる気配を見せないが、彼らも時間無制限に何日も暴れ続けることは出来ないはずだ。飯も食わず、夜も日も寝ないで暴れまわるとしても、せいぜい三日が限度だろう。一斉に始まった暴動だから誰もが一斉に疲れ果て、三日もすれば少しは騒ぎも治まるのではとの理屈だ。警察の側も同じように考えているとすれば、取り締まりに動くのはまだ先かも知れない。
 一睡も出来ない夜が明け、つけっぱなしの実況中継の画面映像の印象では、相当の建物が燃え始めている感じだった。自分の今いる場所は暴動のど真ん中だから一歩も外へは出られない状態だが、少なくとも、主に被害を受けているのは韓国人所有の店舗で、個人の住居である私のこの場所が暴徒に襲撃される危険性はなさそうだった。つまり、実弾を込めたベレッタを使うこともないということで、自分の命も含めて、二重の意味で安堵した。
 ロドニー・キング事件は、死に至らしめる武器を使って過剰な警察権を行使したという嫌疑を裁判で争ったものだ。普通、起訴されても無罪が妥当で、実際、今まではそれで何の問題もなかった。もし、警察の犯人取り締まりについて誰かが文句をつけたとしても、まず彼に勝ち目はない。というのは、警察は仲間で口裏を合わせてカバーし合うから、被疑者がたった一人で孤軍奮闘しても警察は鼻で嗤うだけで痛くも痒くもないのだ。現にこの度の事件でも、四人の中のパウエルとクーンの両警官は、レポートに虚偽の記述をした疑いも加え、起訴されている。
 このように、ありもしないことをでっちあげられるのは日常茶飯事で、そもそも、犯罪人を取り締まる行為は絶対の正義だから、と思われているから、こういういかさまがまかり通るのだ。
 ただ今回は、ロドニー・キングを殴打している映像が何回も繰り返してアメリカ中で流された後だったので、或いは、いつもとは違う判断が出るのではと、黒人社会や活動家たちが期待したのも事実だった。日頃から警察の過剰なやり方には非難があったのだが、この度は言い逃れの出来ない証拠として、皆が寄って集って殴る蹴るの映像が撮られていたからだ。この僅か二分に満たない映像がアメリカ中にセンセーションを巻き起こしたさまは、誰の脳裏にも鮮明に残っているので、よもや無視されることもあるまいとの思いがある。
 それにも拘らず、結果は無罪。黒人社会の怒りは一気に頂点に達し、二百人、三百人とLAダウンタウンからサウスセントラルのあちこちの地域に集まり始めた群衆は、店の看板を蹴り倒したり、ウィンドーのガラスを壊したりし始めて、この大暴動となったのだ。
 暴動のTVを観ていて思うのは、ニュースで流されたトム・ブラッドレイ市長のコメントだ。既に所々で騒ぎが始まっているとき、黒人の市長である彼は、「今日、陪審員は、我々がこの自分の目で見たことを犯罪ではないと言った。私は、それは犯罪であると言いに、ここへ来た。我々は、僅かな背教的な警官が市民に行った非道な暴力行為を絶対に許すことは出来ない」というような意味のコメントを市民に向けて述べたのだ。聞いていて、時と場合を考えれば、彼の言葉は完全に暴動を煽る言動だと私は感じた。
 黒人の彼は自分の実直な気持ちを述べたのだろうが、市長という立場と仕事を考えたら、もう少し、ものの言いようがあったのではないかと思った。とは言え、厳しい人種差別と不利益を被り続けた長い歴史が身に染みている彼の気持ちも、分からないでもなかった。あのように言うのは、無理もないとも思う気持ちもある。とどのつまり、私に彼は責められない。
 ともあれ彼はLA市長だ。早速、夕方から夜明けまでの戒厳令を発令し、市民の安全を図る仕事を行った。平たく言えば、夜間外出禁止令だ。ま、暴動が起こっている夜中にのこのこ外出する人もいないだろうから、結局は暴徒を相手の規制であって、あまり効果があるとも思えないが、何もしないよりマシというところか。
 TV画面に映る暴動は益々酷くなっている様子で、ハリウッド付近の韓国人のスーパー・マーケットでも、韓国人従業員らしい男たち数名が屋上で銃を構えて、店舗に押し入ろうとする暴徒や略奪者と対峙しているのが報道されていた。女のTVニュース・キャスターが、銃を撃つのは問題があるとコメントして、私を鼻白ませた。
 彼女には、暴徒から自分たちの家族や財産を護るのは、当然の権利なんだという基本的な人権が分かっていないらしい。それが嫌なら代わって警察が護ってくれればいいだけだが、肝心の警察は影も形もないではないか。
 警察が手を出さないから、暴徒はあたかも免罪符を手にしたかのように、どんな悪の限りを尽くしても問題ない状態になっているのだ。知人の電話情報では、黒人社会から一番のターゲットにされている韓国人は、警察は自分たちの街や店舗を護る意思は全くない、と仲間内では囁き合っているらしい。実際、既に火だるまになっているサウス・セントラルの地域は見捨てて、オフィシャルな防衛ラインは白人地域のべバリーヒルズやウエストハリウッドだという噂もある。
 この暴動は黒人社会が奴隷時代から感じている白人社会からの差別意識が膨れ上がり、怒りが爆発したものだが、彼らの矛先は真っ直ぐに白人には向かわずに、日頃から対立していて軋轢のある韓国人社会へ向かい、彼らの店舗で略奪、放火を繰り返した。もし白人を襲えば、手痛い報復が待っていることを黒人たちは長い差別の歴史の中で、骨身に沁みるほど思い知らされているからだ。
 このことから私は、暴動の怒りがウエスト・ハリウッドやべバリーヒルズに向かうことはまずないだろうと思っていた。もしも、大勢の警察官がこの防衛ラインで待機しているとしたら、彼らは、任務を口実に一番の安全地帯にいるということになる。だとしたら、如何にも白人らしい知恵の回し方だと言えなくもない。 

 一般市民が撮ったビデオが映し出したロドニーキング事件に端を発したこの度の暴動は、白人社会や警察組織の日常的な差別に対する鬱積が弾けた形となっているが、実際は彼らがこのアメリカに奴隷として上陸して以来だから、単に日常的と言うより歴史的と表現する方が適切なほど、長い長い時間を経た恨みつらみが今日まで続いている。
 暴動がLAで起きただけでLAに限られた問題ではなく、アメリカ全土に広がっている根深い問題なのだ。
 ロドニーの事件は、常軌を逸している最近のポリスの過剰取り締まりが切っ掛けになったに過ぎない。メディアの間でポリス・ブルタリティという言葉が毎日のように飛び交って、ポリスの取り締まりの実態が目をそむけたくなるほど強圧で出鱈目なのは、実際に今現在、踏み込む家を誤認して私の住所に押し入って、私に障害を負わせた事件でポリス(厳密にはシェルフ局にだが)を告訴している当の本人だから、その取り締まりの実態がどういうものかは身をもって承知している。
 シェルフたちを告訴した当初、彼らに全面的な非があるのに係わらず私の身辺をしきりに嗅ぎ回まわっていたから、自分たちの保身のためには、一体、どんな言いがかりや口実を作り出し、場合によっては身に覚えのない濡れ衣を着せられるかも知れないと戦慄させられるほど、全く油断も隙もならない連中であり、組織なのだ。 

 ポリスが有無を言わさない乱暴な取り締まりをやるのは、容疑者の方も一筋縄ではいかない連中ばかりだからというのはある。思いつく限りの嘘はついても、彼ら容疑者が最後まで自らの罪を認めることはまず無いし、ちょっとした油断が命取りになりかねない凶悪な輩がうようよしているのだから、相手への気遣いとか、温いことは言っていられないというのは分からないでもない。日本と違って銃器を所持している場合も多い。
 しかし、実際には、ポリスが容疑者に撃たれるより、ポリスが容疑者やその他の人間を撃ち殺すほうが、圧倒的に多いのだ。特に、黒人に対しては少年成年を問わず、考えられない数の死者が出ている。これはもう、安易に、躊躇なく撃ち殺すという単位の数字だ。容疑者に撃たれるかも知れないとの警察側の言いようは針小棒大で、両者の対比に見る限り、殆ど口実に過ぎない。
 ポリス・ブルタリティと黒人、ポリス・ブルタリティと私、そしてポリス・ブルタリティと今現実に起こっている黒人の大暴動・・・。
 この暴動は、ポリス・ブルタリティを受けた私としては、そういう意味ではまんざら無縁でもなくて、ポリスに抗議して騒いでいる黒人たちに加わっても文句はないはずだが、表に出た途端に韓国人に間違えられて、反対に、彼らの恰好の餌食になるのは火を見るよりも明らかだ。
 つまり、黒人たちの暴動は本来の攻撃相手であるはずの白人社会やポリスに向かわず、鉾先を変えて韓国人の店舗を襲い、物品を強奪した上に、建物に火を放っているのだ。白人を襲えば必ず手痛いしっぺ返しが来るのが分かり切っているから、近年、新しく対立を深めている韓国人社会に向かったということだ。横柄で生意気な奴らだから、この際、痛めつけてやろうというところだ。

 発生から四日も経つと、軍隊が出動するというニュースも出て、あれほど荒れ狂ったLAの暴動も、だいぶ下火になって来た。いくら威きり立ち、不眠不休で飯も食わずに暴れまわったとしても、三日もすれば誰もがばてるし、そんなに長く続くわけはないと最初から予想していた通りになっている。
 数日前に弁護士から届いた手紙は、この二日後に予定されているパサデナでのデポジションに関する連絡だった。デポジションというのは裁判の前に弁護士が同席してこの裁判を起こした理由などの記述書を作成するもので、いわば、五人のシェリフを告訴した私が語る事件の詳細を係官が文書にするための会合だ。この記述書は重要な証言であり証拠扱いにされるから、係官から質問も受けて真実以外の偽りや創りごとの矛盾点などは徹底的にチェックされる。
 人の世は大いに都合よく出来ていて、多少、言葉の矛盾や齟齬があっても、もしそれを大物の政治家、例えば一国の大統領や首相などが発言した言葉であれば、その言葉は解釈され、都合の良い意味に取られて、失言や問題点をカバーされることがある。しかし、裁判の証言や証拠となるとそうはいかない。決して、私の側に都合の良い解釈はしてくれないのだ。稚拙な言葉遣いや誤りはそのまま悪しき証拠を形成するから、記述に齟齬があってはならないと、私は弁護士に通訳を要請していた。
 真実を語れば良いことだからデポジションそのものに問題はないが、そのパサデナのオフィスに行くのに、下火になったとはいえ、まだ暴動が続いている通りをドライブして行かねばならないのが、少しばかり心配でもあり憂鬱だった。何せ、私の住所はノーマンディのすぐ近くだから、激しい暴動が起こったど真ん中なのだ。
 しかし、五月の一日にブッシュ大統領が、暴動を制圧するために海兵隊や陸軍などの軍隊を三千人から四千人、LAに送ると発表していたので、遅ればせながら、そうなると、デポジションの日までには何とか暴動は収まるだろうとは思った。
 海兵隊や陸軍が来るのには時間が掛かるのだから、だったらカリフォルニアの州兵を暴動が起こったすぐ後にLAに出動させれば良かったのではないかと思ったが、もしも州兵が即時に暴動に対応するとしたら、それはそれで大変なことになるような気がする。ライフルや機関銃で武装した数千人の兵隊が放火や略奪をしている暴徒たちを、次から次へと撃ち殺すという構図になるのだ。
 とてもじゃないが、そんなことが出来るはずもない。それこそ、暴動より大事件の一方的な大虐殺になってしまうではないか。相手が黒人だけに人種差別問題も絡んで世界中から非難が殺到して収拾のつかない大混乱は必至だから、独裁共産党の中国じゃあるまいし、そんなことが出来るはずもない。
 とすると、もしかしたら、政府関係者は色々な理由をつけて軍隊を出すのをわざと遅らせているのかも知れない。世の中、急げば好いというものでもなさそうだ。暴動の最中、ポリスが本来の仕事を放棄しているのと似てはいるが、ポリスの方は自分たちの保身が主な理由だから、軍隊の不出動とは全く異なる。
 大統領が発表したのと同じ日、この暴動の切っ掛けとなったロドニーキング本人もTVに出て、暴動を止めるように呼び掛けていたので、やりたいことをやって疲れ果てた暴徒も、そろそろ潮時かと、彼の言葉に従う気持ちになるかも知れない。ともあれ、中止にでもならない限り、デポジションにはどんなことがあっても欠席は出来ないのだから、例え暴動が続いていようと、出掛けるつもりでいた。


 デポジションの件でパサデナに出かける当日、裁判官の面前で話すのと同じ位に重要だから、そのつもりで服装などもきちんとしたものにするようにと弁護士から言われていたので、それなりの身支度をして私は通りに車を出した。あちこちの店舗の建物は黒く焼け落ちたり焦げたりしていて、辺りの様子は以前とはすっかり様子が変わっていて、戦争被害に遭った街並みを想起させるほどで、激しかった暴動の様子が読み取れた。まだ、燻って白い煙を出している建物もある。
 北に向かって少し車を走らせていると、ある程度の規模のショッピングセンターのある駐車場があって、包装紙や商品の空箱が一面に散乱した広場に人々が動き回っていて、店から物品を持ち出している者もいた。見ると、やや太り気味の、裕福そうな身なりをした中年の黒人女性が、店から抱えてきた数個の箱をキャデラックのトランクに詰めていた。まだ、暴動の略奪の最中で、収束してはいなかった。広場にいるのは殆ど略奪者だろうが、中には参加を迷っているように立って見守っているメキシコ系らしき青年の姿もあった。


 商品を梱包していた空き箱などが散乱する駐車場を走り回っている略奪者たちは、停めた車に寄りかかって彼らを茫然と見ているメキシコ人らしき青年もそうだが、暴動が始まったばかりの時のように、怒気を纏った凶暴性は全く感じさせなかった。
 店から持ち出したばかりの商品をキャデラックのトランクに入れようとしている金満家風の黒人女性は、まるで購入した品物を扱うように平然と略奪品を抱えていたし、
誰もが皆、他人の物を盗んでいるという深刻な罪の意識がある風には見えない。その様は、昔、日本の棟上げ式のときにやっていた餅撒きに参加している人たちを見ているような風景と交錯する。
 暴動が始まって数日が過ぎると、明らかに暴動当初とは違い、誰もが、怒りよりも物品を得ようとする利得の方へ血道を上げているようだ。義憤に駆られて飲まず食わずで夜も寝ずに暴れまわった暴動の先導者たちも、流石に疲れ果てて頭が冷えたか、ベッドに身を投げてぐったりと眠りこけているのだろうか。今、略奪をやっている者たちは彼らとは全く別人だった。
 裁判絡みで、どうしても暴動の真っただ中の街を通り抜けなければならないので気が重かったし心配もしたが、どうやら杞憂だったようで、略奪者の群れを横目にしても危険な感じはしない。暴動初期には仲間内ではない人間と分かると誰彼の見境もなく襲いかかる様子が報道されたが、今はそんな心配はなかった。誰もが、壊した店の出入り口からあまりにも自然な感じで品物を持ち出しているので、略奪者とか暴徒というより、かっぱらいかゴマのハエとでも表現する方がぴったり来る。
 見方によっては、彼らを眺めているメキシコ人らしき青年も、自分も盗みに参加するかどうか、判断に迷っているように思えなくもなかった。願わくば、悪い考えは起こさずに大人しく家に戻って欲しいものだが、このまま傍観を続けていると、誘惑に負け、ついには、盗みに手を染めてしまうかも知れない。
 暴動という一つの大きな社会現象が切っ掛けとなって、新たに、大勢の盗人を一挙に生み出そうとしている好例を見せつけられるようで嫌な感じだったが、何分、暴動の街の直中を走っているのだから、気分の好いはずはない。命の危険がないだけマシだと考えるしかないのだろう。
 この場所から火元は目に入らないが、近くで、暴徒たちに放火された建物の火事がまだ延焼しているのか、それとも燻っているのか、漂う煙の臭いが鼻につく街を、私は北に向かって車を走らせた。

 役所関係のオフィスが入居しているらしいパサデナのビルの一室で、デポジションの供述書作りが始まった。それほど広くない部屋で私の右に弁護士、左にはインタプリタ―と呼ばれる私の日本語を英語に通訳するアジア系の男性が並んで座り、向かいには、金髪の若い女性係官が座って調書を執った。
 私の提訴した事件は、所謂ポリス・ブルタリティと呼ばれる警察官の暴力行為を告発したもので、私が住んでいる街で今まさに起こっている暴動の発端となったロドニー・キング殴打事件と似ている。
 言わば、彼の事件と同じく数人の警察官に暴行を受けたのだが、キング事件と少し違うところは、相手がポリスではなくシェリフで、彼ら数名が住所番号を間違えて私の住居に雪崩撃って踏み込んだ際に、私に身体的な被害を及ぼしたという点だ。
 ポリスとシェリフの違いは捜査や取り締まりを行使する管轄権で、ポリスは市町村を主に管轄し、シェリフ局は郡やジェイルなどを管轄している。この度の私の事件は、彼らシェリフが良く確認もしないで間違った家に踏み込んで、何の関係もない無実の私を襲い、大怪我を負わせたのだ。怪我の内容は膵臓を損傷する内臓破裂で、手術と一カ月の入院治療を要するものだった。
 怪我に至った経緯はこうだ。
 ある朝、私は寝室でまだ寝ていたのだが、玄関口に通じた居間に数人の若い男たちが来ていて、ソファに座ってそのころ同居していた女と歓談していた。私とは会ったこともない全く知らない男たちだが、玄関の呼び鈴が鳴ったので、ちょうど起き上がった私が出ようと、皆のいる居間に入った。私は男たちに挨拶の声をかけて、玄関口に向かった。玄関の傍らの部屋の窓に数人の影が映っていたので複数の来訪者だとは分かったものの、誰が来たのかは見当がつかなかった。
 「今、開けますから」
と言って、私は内側のロックを外してドアを開けた。
と、そのとき、開けたドアが勢いよく押され、同時に、不意に入って来た男にみぞおち辺りの腹部を靴先で思いっきり蹴り上げられた。
 カーペット敷きの床にしゃがみ込んだ私を倒して、その男は私の両手に手錠をかけた。私だけでなく、その部屋にいた若い男たち全員が組み伏せられ、手錠をかけられた。同居の女も例外ではなかった。
 その後のことはよく覚えていない。というより記憶が欠落していると言ったほうが正しいのかも知れない。というのは、この事件のことは、所々で全く思い出せない箇所があるからだ。
 一番強い印象は蹴られたことと、嵌められた手錠が強く締まり過ぎて、もう少し緩めてくれと訴えたのを覚えているくらいだ。踏み込んできたシェリフたちや若い男らがどんな状態で、どのようにして家から居なくなったのかは全く記憶にない。別に気を失っていたわけでもないのに、そこら辺の状況は何処かへ消し飛んでいて、全く覚えていないのだ。気が付いたときには、手錠を外された私と同居の女だけが家に残されていて、彼らは何処へ行ったのか、誰一人として見当たらず、彼らは消えていた。ちなみに、手錠を外されたときのことも、一切、記憶にない。
 居間にいた若い男たち全員が逮捕されていたことは、大分後になって、彼らの弁護士から電話がかかってきたことで知った。シェリフが住所を間違えて私の家に踏み込んだという事実は、その弁護士の口から聞いたのだ。
 弁護士によると、逮捕された若い男たちは間違った住所にいたという点で無実であり、私の住所番号が踏み込まれた住所と同じであることを法廷で証言して欲しいとの電話連絡だった。私は承諾し、再び連絡を受け次第に、法廷で証言することになった。
 という訳で、この弁護士から、シェリフ側の急襲家屋の誤認という重大な過失の証言を得たのだ。が、実はもう一つ、これは弁護士ではなく、逮捕された男たちの一人が獄中からコレクトコールをしてきたときの電話で得た情報がある。
 彼から電話が来たとき、交換手が伝えた名前に聞き憶えがないので断ったら、
「頼むから、切らないでくれ!」
と、受話器の向こうから悲痛な声が聞えて来た。
 声の調子があまりにも切実な感じがしたので、私は仕方なく電話を受けるのを承諾した。聞いてみると、私がシェルフに蹴られたとき、部屋にいた男たちの内の一人だと分かった。彼は、自分は無実だと私に訴え、法廷で証言してくれと彼の弁護士と同じことを私に要望した。既に弁護士に承諾している件なので、分かったと伝えると、彼はお返しのつもりだったのか、あの朝に
踏み込んできたシェリフ全員の登録番号を私に教えてくれたのだった。メモしたその番号は、後に、シェリフ局を提訴する際に弁護士に提出した。
 シェリフや若い男たちが居間からいなくなった後、私は蹴られた箇所の、一向に治まる気配のない腹部の痛みに耐えていた。みぞおち辺りに強烈なボディブローを喰らったような鈍痛だった。だが、殴られたボディブローなら時間が経てば治るが、いくら時間を経ても痛みは消えない。それどことか、正午を過ぎ、二時、三時と時間を経るほど痛みは増し、夕刻ごろには腹部を押さえて唸り声を発するほどになっていた。ここまで来ると流石にただ事ではないと分かり、靴先で激しく蹴られたので胃に穴でも開いたのかと思った。
 長い話を端折れば、飲めず食えず眠れずで、私はこの痛みを、緊急入院した病院のベッドでこの先十日間も我慢し続け、開腹手術が決まるまで七転八倒の思いで耐えたのである。

                             (以下61号)
 


多勢のポリスによって、路上にうずくまる黒人青年ロドニー・キングに暴力を振るう映像ニュースが、LAを覆っている不穏な空気をより濃くしたのは明らかだった。 それが誰の目にもはっきりとしてきて、焦臭く、肌に感じるほどピリピリし始めたのが、事件に関わった四人のポリスに無罪と評決された日からだ。
 しかし、無罪評決で黒人社会は騒然となったが、犯罪や司法関係の専門家たちの間では、無罪そのものに特別な驚きはなかったようだ。
 通常、陪審員が白人で被告が黒人の場合、有罪になる確率は断然高かったし、この度の裁判のように、白人のポリス対犯罪歴のある黒人青年との法廷闘争ということになれば、黒人青年に勝ち目はないと言っても過言ではなかった。
 専門家の弁では、陪審員は自分の身を守る権利の主張に共感、同調する傾向があり、法廷でポリス側が、ロドニー・キングの反抗的で危険な攻撃から身を守り、且つ任務を遂行するための必然的な行動だったとの大義名分をかざせば、陪審員はどうしてもポリスの側へと傾くらしい。
 だがこれは、正当防衛が真実だという前提あっての話しだ。実際は、その前提が全くの捏造だったりするから始末がわるいのだ。つまり、ポリスが皆で口裏を合わせれば、でっち上げは簡単に本当らしく糊塗され、悪はたちまち正義の顔に変わる。 
 むろん陪審員は、ビデオ前後の被告の行動や犯罪歴などの情報を与えられているので、ポリス側の弁論を受け入れやすい状態になっている。加えて、裁判を行う場所として選定されたのが、大半の住民が白人で占められているシミバレーときている。  因みに、シミバレーはLAなど近隣の都市部へ通勤する人々のベッドタウンであり、米国でも有数の安全度を誇っている町だ。当然、住民の犯罪に対する警戒度は他の町より高いだろうことは想像に難くない。

杉田
shinshokurin@aol.com


広告


HIROMI PAINTING 
Lic.926655, BOND
杉田廣海

NOTARY PUBLIC
清水克子

616 N. OXFORD AVE.
LOS ANGELES, CA 90004

TEL: (323)527-6810, (323)632-5747

 

お知らせ

 去る平成23年12月19日、新植林に多大な功績を残しました津川国太郎氏が亡くなりました。享年85歳でした。